映画『パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト』感想
公式サイト:
http://respect-film.co.jp/pacodelucia/
この映画の事を私に教えてくれた人はパコの来日公演を観た人で、当初パコの事を知らなくて観に行くのも乗り気ではなかったという。しかし、いざ公演が始まり、衝撃を受けたそう。
「パコがギターを掻き鳴らした瞬間、行ったこともないスペインの青い空や白壁の街並みのイメージが浮かんだ」
その話を聞いて、そのイメージがアンダルシア地方の光景であることに驚く。
パコの音楽は、アンダルシアに行ったことの無い人にも、それを伝える事ができる事に。
Bunkamuraではよくフラメンコに関する舞台・映画を上演・上映してくれるので、度々足を運ぶ。
フラメンコに関連するものでは、私は映画『フラメンコ・フラメンコ』以来だ。
フラメンコの曲について調べれば、必ずその名を聞く、伝説的フラメンコギタリスト、パコ・デ・ルシアの軌跡をまとめた、ドキュメンタリー映画。
先日ブログにも書いたが、カンテ(歌)、トーケ(ギター)、バイレ(踊り手)の三位一体で成す(これらに優劣は無い)フラメンコ。
その伝統的な形式――保守的なものに新しい風を吹き込み、更にはトーケのみ独立して音楽として楽しませる事を成し遂げた、パコの偉業について、私は詳しくなかったため、観に行った。
もっとも、この映画はそんな堅苦しくフラメンコの歴史と彼の偉業を称えるようなものではなく、一言で感想を言ってしまえば、パコ・デ・ルシアの音楽――その変容や多様な部分も含めて、堪能する映画だった。
作曲するとき、「ありのままの自分」を表現しようとしている姿勢を強く感じる。
それが人に感動させるものに繋がる事も含めて――
記録されているのは一流のエンターテイナーの姿だ。
冒頭からトーケの調弦のため爪を鑢で磨くパコの姿が映る。その姿に端的に表されていた。
映画前半では、ひた走るパコの姿――フラメンコのトーケ奏者としての活躍から、伝統的な技術にとどまることなく新しいことを積極的に始める創作の模索について重点が置かれる。
フラメンコの光と影――はっきりとした明暗を意識させる世界観は、何となくモノトーンの写真や映像の印象そのままだった。
それがジャズをはじめとする世界の音楽に触れ、次第に色彩を帯びてゆく。
そして映画後半では、原点回帰するように描写はアンダルシアの風土に帰ってくる。
晩年であろう、古いスペイン歌謡曲の復興を試みるレコーディング風景に回帰という言葉を垣間見てしまう。
どの映像も、使われている楽曲も、おそらくパコの演奏の中で一流のものを使っている。
それだけではなく、世界的に有名になる前、スペインのローカル局の映像やプライベートショットなど、ファンには堪らない映像の数々。
映像やインタビューに、まるで家族のアルバムを見ているようだと思った。
この映画の監督がパコの長男、クーロ・サンチェス氏によるものであるという理由ではない気がする。
家族・親族の結びつきが強い――自分のグループの成員を大切にすると言われる、アンダルシアの風土(※1)。
パコは自身のバンドのメンバーも(もちろん、実の兄弟でのセッションもあるが)ファミリアという感覚でいたようだ。
ファミリアを大切にする姿勢は、アンダルシアの風土が培ったものなのだと思う。
そのアンダルシアがパコを天才にした、とも。
タパスやワインだけでなく(笑)。
アンダルシアのパティオ(中庭)で行われる、近親者が集まり、一座形式でフラメンコが始まる。(日本文化で喩えるなら盆踊りみたいな感覚か)
パコの父親がギタリストであっただけでなく、そうした下地があって磨かれたのだと。
そう思うのは、日本人の私がフラメンコのリズム――スペインの、アンダルシアのこのリズムを中々会得できていないコンプレックスからの発想なのだが。
自身のリズム感がないこともさることながら、体感的なカルチャーショックのようなものがある。
フラメンコのリズム感はアンダルシアが培ったのだろうけれど、それを活かしジャズや他(中南米)のラテン音楽との共演を果たせるパコのセンスは、天賦の才だと心から思う。
サパテアード(フラメンコで特徴的な足を打ち鳴らす動き)からヒントを得て、ジャズで使われる箱・カホンを取り入れた。
その後、フラメンコでカホンを使う形式は2年足らずで普及した。
ヒターノ(流浪の民、ジプシー、ロマの人々)の音楽が起源とされるフラメンコと、奴隷制の下苦難を強いられてきたアフリカ系の人々の音楽であるジャズの親和性――どちらも虐げられた人々の生きる慟哭が、それでも生きる歓喜を喚起するため生み出したものだった。
他ジャンルの共通点に気づけるのは、彼が世界を巡り見たこと、沢山の人との交流があったからだろう。
バイレとの絡みは多く描かれていなかった。
そう考えていたところ、読んでいた本にその答えを見つけた。
‘日本では、フラメンコの本日はカンテ(歌)・バイレ(踊り)・トケ(ギター)の三者が一体となるところにある(三位一体)といわれることが多いが、じつはこれはバイレ側からの見方にすぎない(※2)’という。それは踊り手の心構えを述べたものだと。なぜなら‘フラメンコというジャンルが歌を中心に確立し、発展してきた’ためだという。(もちろん、これは歌が偉いとか優劣があるという話ではない!)
また、フラメンコの歴史を変えたとまでいわれるギタリスト、パコ・デ・ルシアについて、ある人が「パコはギターでカンテをやろうとしている」といっていた。彼のギターは、ある意味でカンテの模倣なのだといってもよい。これは、パコ・デ・ルシアがカンテを重要視していることを示すエピソードとして興味深い。(p.165)
パコはギターを使って歌っていた――
ならばその旋律に感情が乗っていても不思議は無いと思った。
会場でCD売っているかと思ったら、やはり売り切れ?のようだった。