映画『GODZILLA KING OF MONSTERS』感想
公式サイト:
https://godzilla-movie.jp
良くまとまっていたと思う。ジェットコースターのような怪獣バトルのオン・パレードで、飽食気味になったけど……
20年前に日本人が見たかった“GODZILLA”だった。
90年代のアレは破壊光線を吐かなかったこともあって、"GOD"を取って”ZILLA”と揶揄されているけれど……(当時の価値観でのリアル路線と怪獣“パニック”映画の定番設定だったけれど)
!!一部、ネタバレあり!!
『ゴジラ』へのリスペクト
どこまでも東宝の歴代『ゴジラ』へのリスペクトだった。
日本ゴジラが歩んだ道を踏襲している。すなわち、初代『ゴジラ』が反戦・反核の意味を込めた怪獣スペクタクルであったものの、時代の変化を受けて次第に対決モノと化し、大人向けから子供向けになったことも含めて。ただ、今作は子供向け(幼稚)にならないように配慮されていると思った。
前作、ギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』(以下、『ギャレゴジ』)が現実世界寄りだったが、今作は完全にフィクション寄りを強くしていた。
怪獣の調査機関に過ぎなかったはずのモナークの規模が実は大きく、前作での時間軸での事もあって資金が潤沢になっているようだった。大規模な研究施設を持っていたり、洗練された大型ステレス爆撃機を持っていたり……後付け設定で、実は今までシェルター作っていたなど。
前作の雰囲気から突然の変容ぶり――フィクションっぷり――に驚きつつ……それを当然のようにキャラクター達は動き、俳優たちは演じていた。
『ギャレゴジ』よりも家族関係のやり取りを描き、ファミリー層向けのような描き方だったが、昨今の社会における家族関係の問題をクローズアップしているとは言い難く、添え物程度のものだ。主軸は怪獣たちなので、致し方ない。人間は完全に脇役だった。
怪獣たちのキャラクター設定も然り。意思の疎通があるのか無いのかわからないゴジラが、シリーズ化して次第に擬人化されたように。
人間とのコミュニケーションを取るものや、目が合って敵意を向けるものなど。個体の特徴にも現れていた。
私はアニメ版映画『GODZILLA 星を喰う者』で、このハリウッド版ゴジラにおけるモスラが、東宝ゴジラのように大地母神的な性格持ち合わせてないだろうと予想していた。しかし今回のハリウッド版ゴジラはそこをちゃんと意識して、女性原理的な存在として描写していた。(そのため作中で"She"と性別が固定化されてしまっていたが、これは言語的に仕方無いのかも知れない。)
これはいつかのようにスライディング土下座しなければならないレベル……
⊂(゚□゚*⊂⌒`つ≡≡≡
ギドラもといキングギドラは言わずもがな……絶対的な“敵対者”。設定的に古代の巨大生物ではなく、宇宙から来た“部外者”であり、侵略者という位置づけ。欧米的な聖書の赤い竜(悪魔)の要素を被せていた。……顔は比較的東洋竜なのに。
ラドンは『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』のように、ゴジラ、モスラと共闘することなく一体でギドラに挑み(おそらく敗れて)ギドラの子分になっていた。
個人的には、メキシコ上空をラドンが飛んだ時、通り過ぎた後に人家が暴風に巻き上げられるリアリティに圧倒された。(※1)
終盤の見せ場での“バーニングゴジラ”……歩く度に周りが熱線で融解しているのを見ると、アニメ版映画『GODZILLA 決戦機動増殖都市』の赤線ゴジラだった。
さらに初代『ゴジラ』でゴジラを斃した兵器オキシジェン・デストロイヤーまで出てきた!
往年のファンにはたまらない濃縮ぶりだった。
そうした諸々のリスペクト描写が詰め込まれて面白かった。私が特に気になった、原水爆の描写と音楽に表現されたゴジラについて、したためておく。
物語の感想というよりは、今作を見て『ゴジラ』という映画、存在についての考察と感想になってしまった。
“GODZILLA"と原爆 ――日米の認識の違い
ゴジラが戦争、自然災害、何よりも原水爆の化身であるという見方は、多くの人が共有していると思う。
『ギャレゴジ』はその意図を汲んで、“原爆を怪獣に使わせない”(海上で爆発させたけれども)という表現をした。
今回は原爆をゴジラに使う。ただし斃すためではなく活力をあたえるために。
原爆核の平和利用としての原発……戦後の未来志向・平和志向のオマージュとしてだろうか。しかしチェルノブイリ、スリーマイル島そして福島のこともあり、不測の事態に陥った時の悪影響の大きさ、場合によって長期にわたる環境への影響が認識されるようになると、その楽観は幻想に過ぎないという現実を突きつけられた。
オキシジェン・デストロイヤーは対怪獣兵器の域を出ず、初代『ゴジラ』のような核兵器以上の兵器とは位置づけられていない。
『ギャレゴジ』で父の形見である 8:15で時を止めた懐中時計を見せ反原爆を暗示した茅沢博士が、ゴジラを蘇らせるために原爆で死亡する……
ついでにゴジラの寝床であった海中遺跡も破壊して。初代『ゴジラ』におけるオキシジェン・デストロイヤーと共に初代ゴジラを葬った茅沢博士へのオマージュだろうが、反原爆の茅沢博士を原爆で引導を渡すのはどう解釈したら良いのだろうか……?
その答えとなりそうなことが、池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』にあった。
ハリウッド映画の「原子怪獣現わる」(The Beast from 20,000 Fathoms,1953)や『放射能X』(Them! 1954)などに現れる空想上の生物がその好例である。しかしながら、アメリカ人は、核に対する不安を処理するには、深刻な反省というよりも、現実逃避の空想を好み、それによって核兵器をめぐる道徳的責任を回避しようとしたのだった。
池田淑子編『アメリカ人の見たゴジラ、日本人の見たゴジラ』 2019 p.47
第二次世界大戦の終結をもたらしたとしても、アメリカでは原爆の下の惨劇―― 戦場ではなく非戦闘員がいる 街ごと焼き、人々が火の海を焼けただれた皮膚と出血が止まらない状態でさ迷い歩いていたことは伏せられていた。
それは戦後も続き、核に関する検閲があったことが伺えた。
そのため、制作された映画や広告では、原水爆の爆発による破壊力、放射線による健康被害について言及するシーン描写は不自然に避けられていたらしい。
それらを無視して、原子力の平和利用……原発の効率的な発電から得られる電力の恩恵をクローズアップしたような描写が多いのだ。
実際、マーベル・コミックスおよびその実写映画の『ファンタスティック・フォー』も宇宙線(放射線)を浴びたことで超能力を身につけている。
原爆投下後のきのこ雲の下の惨状、放射能の後遺症についてなど、アメリカ映画で描かれている事は殆どない。強いて言えばジェームズ・キャメロン監督映画『ターミネーター2』でサラ・コナーが見た――未来のヴィジョン――公園で遊ぶ母子たちが一瞬で炎に包まれ灰と化したヴィジョンくらいだろう。
今作で原爆の爆発をもってゴジラが活力を得るのは、アメリカ視点の延長に過ぎないと、私は思った。
そもそも核エネルギーをゴジラが得るために爆発などさせる必要はなく(火薬いらない)、原爆の放射性物質を経口摂取させれば済む話のはず。
爆発させたことで海中に沈んだ古代遺跡、ゴジラの寝床は無くなってしまう(この展開は東宝ゴジラにもあったはず)。ゴジラにとっても迷惑な展開である。
“GODZILLA"の音楽
興味深かったのは音楽。
重要なゴジラ復活のシーンで、伊福部昭氏の往年のテーマソングが流れた瞬間の、高揚感……!
初代『ゴジラ』のテーマと比べて、テンポが速くオーケストラの厚みが増しているのは、今風のアレンジだが。
怪獣たちの個性を表している。往年からのゴジラテーマ然り、モスラの歌は言わずもがな。ラドン、ギドラにも主要怪獣たちには各々のテーマ曲があった。
映画『シン・ゴジラ』の感想でも書いたが、『シン・ゴジラ』の音楽を担当した鷺巣氏は「伊福部氏の音楽を超えることはできなかった」と言っていた。そういった理由というより、往年の(特に日本の?)ファンのためにそこはあえて崩さなかった、が理由だとは思う。『ギャレゴジ』では、独自のテーマ曲があったのだから。
マーベル映画『ブラック・パンサー』でもアフリカン・ミュージックを取り入れていた。トレンドと言えばそこまでだが、日本や、特に中国での興行収入を念頭に置いた時、東宝『ゴジラ』へのリスペクトを念頭に置かないと失敗するということがあったためだろう(※2)。
そのためか、音楽――曲というより「音」――に日本的なるもの、アジア的なものとして含まれていた。
シリーズを代表する3体の怪獣……ゴジラには日本のお囃子が重ねられ、モスラには中国の弦楽器の音が加わっている。そしてギドラには読経が重なっている。
配給元のレジェンダリー・ピクチャーズに中国資本が入っていることもあって、小美人が中国人女優(研究者役)に置き換わっている事、インドネシア語?の歌詞は無くなり、架空の南の島ではなく雲南省にいるの事を、私は残念に思う。架空のその島は、ビキニ環礁を彷彿させるものだから。
ギドラのテーマソングにベースとして組み込まれている読経は般若心経だった。
その上に重なる、不穏なものの来訪を意識させるオーケストラによって、悪魔的になっている。
葬式で読経されること(そこからジャパン・ホラー、怪談のイメージに?)、平坦な音階から、力強いお囃子の対として採用されたのだろうか?
ギドラは般若心経の意味(※3)……救済や悟りとは対極に位置する存在なので、そこに違和感を覚えた。
エコテロリストの存在
少し話は逸れるけれども……エコテロリストについて。
映画『ジュラシック・ワールド』の感想で私は、終盤の少女の行為に“エコテロリスト”という言葉を使ったが。この映画は直接的なテロリズムをするエコテロリストを描いていた。
映画では「地球を守るため、怪獣を呼び起こし、適切な管理化で人間を減らす」という大義名分を抱える過激思想連中が現れる。
現実の世界では、怪獣がいないだけで人間を攻撃することで自然保護を訴えるエコテロリストたち。
環境問題、野生動物保護などの大義名分を掲げながら、その実やっていることはパフォーマンスの域を出ず、選民思想の延長で対立する相手を“自分より劣った悪い人間”として相手を非難している。
エコテロリスト問題はハリウッド映画のトレンドなのだろうか……?2008年に“THE COVE”がアカデミー賞を取り賞賛されたが、シー・シェパードの代表ポール・ワトソンはICPOの国際指名手配犯となっている(※4)。その事と関連があるのではないかと勘ぐってしまう。
怪獣たちと人類の共生はあり得るのかという未来への不安――次作への余韻――を残し、物語は終わる。
エンドロールには怪獣たちの襲撃の後、怪獣たちが何をもたらしたのかを情報媒体を通して表現していた。それによると怪獣が破壊した後の場所では自然が回復している(うろ覚えだが、怪獣の糞が良い堆肥になるとか……)。
エコテロリストの事も含め、環境問題を意識しながら手をこまねいている人間の無力さを揶揄しているのだろうか。
映画『パシフィック・リム』のKaijyuがその強酸性の青い血液で環境汚染をもたらす描写があったオマージュのようにも受け取れた。
また、映画『キングコング』の舞台だった髑髏島に怪獣たちが集結している事が語られ、『ゴジラ vs キングコング』への布石があった。
縄張り意識か誤解が発端になって、対決するのだろうけど……優劣を決めるような決着をつけるのは憚られると思う。
破壊光線を出すゴジラに、道具を使えるけどコングは不利だと思うし。1962年公開の『キングコング対ゴジラ』は日本版では引き分けをにおわせ、アメリカ版ではナレーションでコングの勝利を宣言しているけれど。
エンドロール後のギドラの首のこともあるので、ゴジラとコングらは共闘しそうな予感がある。
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https://knst.bn-ent.net/kusokagaku/articles/article03.php - 【北米興行成績】『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が期待を下回る興収でトップに ( 2019年6月4日)
https://jp.ign.com/godzilla-2/35907/news/日本と中国で大ヒット、アメリカで苦戦 ハリウッド版『ゴジラ』最新作の興行を読む|Real Sound|リアルサウンド 映画部(2019.06.06)
https://realsound.jp/movie/2019/06/post-370655.html - 般若心経の全文と意味、効果と仏教における位置づけとは?
https://true-buddhism.com/practice/heartsutra/ - シーシェパード(Wikipedia / 日本語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/シーシェパード#cite_note-sankei-20141212-16