映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』感想
公式サイト:
http://www.uplink.co.jp/sacromonte/
フラメンコの“元祖”を観る映画だった。
今日明日生きること――
生活の糧を得るためのフラメンコであり、「今、ここにいる」ため、自己を表現するために踊っている。
そのフラメンコの技術は、洞窟のコミュニティの中で受け継がれてきた絆にも等しいようだった。
19世紀、ヨーロッパ圏でも特異なその異国情緒から巻き起こったスペイン・ブーム……そのきっかけとなるフラメンコと闘牛は、共にロマ達――アンダルシアの人々は誇りをもって自らをヒターノと呼ぶ――低所得者の文化だった。
時々映し出される、サクロモンテの洞窟内部の壁に掛けられた品々は、ヒターノとフラメンコにとって重要なものばかりだ。
皿などの銀製品、すなわち金属の加工技術は、ロマの人々の生計を支えていたし、ロルカの肖像には彼が発表した詩の数々を想起させられた。
ドビュッシー、ファリャなど、数多くの芸術家を魅了したフラメンコ。
それを見るために、多くの人がスペインを訪れた。
そしてフラメンコ(と闘牛)が観光業としての魅力が注目され、国を挙げて“スペインらしさ”の象徴となった。
現在は舞台芸術として洗練されてゆくフラメンコ。
フラメンコを教える専門の学校もある。
「学校なんか行かなかった」
「自分で目で見て覚えていった」
映画に出演するサクロモンテ出身のフラメンコ・アーティストたちは口をそろえる。
ギルドのように地域コミュニティの中で伝承され、自ずと獲得していったフラメンコの技術。
そこに垣間見る、自己を律し生きる強い意志――
インタビューに答えるアーティスト達が時に垣間見せる自身の半生には、色恋沙汰も仄めかされるが、たとえ悲恋であってもそれに打ちひしがれた様子を微塵も見せず、力強い。
苦悩をはじき返すように。
ロマの人々は、人が集まれば、老若男女問わずどんな場所でも踊っていた。
これらがフラメンコの“元祖”だった。
現在のフラメンコにある、靴音を鳴らす技巧を重視するのではなく、もっと思うままに即興で踊るような様は、黒人音楽としてのジャズにも似ている。
チラシにも使われている、ラ・クキと呼ばれる老齢のバイラオーラ(女性踊り手)は、踵がたかくしっかりした現在のフラメンコシューズではなく、かわいいスリッパで踊っていた。
彼らが歌い上げる、泥臭く下世話な歌詞。
映画『フラメンコ・フラメンコ』にあったような美意識はなく、また、最早意味があるのか分からなくなった、詩的な歌詞とも違う。
トマトについて(!?)歌い、時にあけすけに下世話な話を歌い上げていた。
1963年
偉大なバイラオーラ、カルメン・アマジャの死と、その年に起こった大洪水によりサクロモンテの洞窟は水没・崩壊の危険に見舞われる。
当時の政府の方針で、ロマの人々は強制的に移住させられる。
それはフラメンコのひとつの時代の終焉だった。
ロマの故郷喪失――
自然災害によるコミュニティの崩壊は、現在の日本を生きる私にとって、311のイメージに繋がってしまう。
コミュニティが散り散りになり、かつてのような盛況を見せなくなってしまうサクロモンテ。
人がいなくなったサクロモンテは、フラメンコ発祥の地としての価値からか、外国人の買い手(その中には日本人もいたらしい)ついたり、ロマのコミュニティとしての機能が無くなってゆく……
とはいえ、全てが途絶えてしまったわけではなく、新しい土地で再びフラメンコを行ったり、コミュニティの繋がりを維持していく。
同時に、閉鎖的・排他的なイメージが強かったロマの人々も、ロマ以外の人々を受け入れ、混血も進むなどの変化を受け入れてゆく。
それ故に、フラメンコに新しい息吹が吹き込まれていったのだが……
ロマとフラメンコのひとつの時代の終焉とかつての記憶を記録する――
パコ・デ・ルシアが晩年、歌謡曲への関心を持ったように、映像に残す試みのように思う。
フラメンコの学校の話にもつながるのだが、フラメンコの世界では、バレエなど他の舞踏に見られる要素が取り入れられ、舞台芸術として洗練されていっている。
それでもフラメンコは“フラメンコらしさ”を失わず、世代を超えて受け継がれてゆくのだろう。
それは映画の最後にサクロモンテの洞窟の一室で、コミュニティの3世代が集い、各々踊りや歌を披露する姿に集約されていた。
フラメンコやロマの歴史を抜きに、音楽と舞踏を楽しめる面白い映画だった。
フラメンコを習っている私にとっては、生のリズムを聞く良い機会にもなった。 洞窟に響く、踊り手のサパテアード(足で床を打ち鳴らすこと)やカンテ(歌)は重厚感があり、今、感じることができないフラメンコの“音”があることを知った。