映画『スター・ウォーズ / スカイウォーカーの夜明け』感想
半年以上前に鑑賞した映画感想……絶賛消化中。
公式サイト:
https://starwars.disney.co.jp/movie/skywalker.html
期待値が高かったためか、勝手に期待しすぎたためか、所々面白かったけど、私にとって結果は残念な内容だった。
賛否両論あるというし、私のなかでもそうなのだが、“伝説や英雄譚を「終わらせる」ことができなかった”としか言いようがない。
不満点――突然の“焼き直し”
ディズニーの誤算は、「旧六部作のキャラものフランチャイズとしての利点は利用するが、物語構造の引力に引かれすぎない事」に執心しすぎ「新たな神話となり得る新たな物語構造」の創造に無頓着になったというあたりなんじゃないかなあと。これは戦略ミスで、EP9一作の戦術で覆るものでない気がする
— 五百蔵 容 (@500zoo) December 20, 2019
上記コメントが全てを集約していると思う。
一体、何でこうなってしまったのか?前作Ep.7の不評が影響しているのではないかと、勝手な憶測をしてしまう。
突然の色々な後付け設定が今作で現れ、3部作を通してのつじつまが全く合わなくなっていた!
前作まで影も形もなかったパルパティーンが復活。ファーストオーダーの最高指導者スノークがただのハリボテ(クローン)設定になり、陰で全てを操っていたのはパルパティーンただ一人に集約……
前作で「何者でもない」存在だったはずのレイが、今作で突然のパルパティーンの孫設定に……
まるで「『ジェダイの復讐(Ep.6)』の展開を焼き直しました(てへぺろ☆)」と後付けしたようなパルパティーン登場(復活)。それなら何故新章冒頭からその面影をにおわさなかったのか。
それまでのスノークが意味のない存在になってしまったり、パルパティーンの前3部作(Ep.1~3)での一貫した計画性がある姿勢が語られない。突然のパルパティーンの息子設定は人気だった外伝映画『ローグ・ワン』の主人公と父親の焼き直しのような人物像。それをレイの父親に宛がうのはあまりに雑すぎはしないか?
『ローグ・ワン』の主人公・ジンとキャラクターが被ってしまう……
この筋書きでいくと、『ファントム・メナス(以下、Ep.1)』での「シスは常に師弟のみ」「複数の師弟がいると殺しあうため」というやり取りから、絶対悪のマスターの地位ががどの様に継承されていたか、描かれることは遂になかった……シスというダークサイドの師、パルパティーンのような絶対悪がどうして生まれるのかは描かれなかった。
烏合の衆になっている共和制の弱点、弱みに付け込まれてダークサイドに堕ちるダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカー、劣等コンプレックスからダークサイドに染まるカイロ・レンの立場(弟子)ではなく、マスター(師)の誕生(継承)が謎のままだ。パルパティーンの弟子は皆死んでる……
監督はJ.J.エイブラムズ。フォースの覚醒の監督。『フォースの覚醒(Ep.7)』でも思ったが、この監督はファンのツボをよく押さる。だからこそ再び起用されたと思うのだが、今回はどうしてこんなに懐古色を前面に押し出してしまったのだろう?
あの時は新章初回ということもあって、30年前のワクワク感を喚起させる――鑑賞者の懐古趣味をくすぐる――ものだった。それは導入として許されるものだったのではないだろうか?
だが、今作は最終章。
焼き直しでもファン・ムービーでもない独自の物語を見たかった。
短絡的な発想で、前作『最後のジェダイ(以下、Ep.8)』が往年のファンから不評だったため、その巻き返しを図るために過去作のキャラクターを引っ張り出してきたのではないかと邪推してしまう。(※1)
私はEp.8でぽっちゃり系女優を起用したことに不満はない。そのキャラクターが垢抜けない感じでも。
ただ、道化役のように見せかけて意外なヒロイン枠的にするために、メイン枠3バカ(レイ、ポー、フィン)の1人であるフィンとのラブロマンス要素をねじ込んで来たことが不協和音の原因ではあるまいか?
Ep.8を映画館で鑑賞したとき、その設定に無理があったように感じた。何となく、俳優陣も腑に落ちないで演じていたように見えたし……
あの時の私の気持ち「友達以上恋人未満の関係があったって、別にいいじゃない(なぜそうしなかった?)」
もし新たな物語を描いたとするなら、それは「旧体制を手放す物語」かもしれない。
これでさすがにシスはいなくなり、また、ジェダイという“枠組み”も無くなったのだから。
フォースを何となくわかると感じる、ジェダイの修行をしていないフィンがそれについて語るのも、そうした意味があるのかもしれない。(その解釈は正誤不明だけど)
惜しかった点――永遠に女性的なるもの
一番印象的だったのは、レイがフォースの力を”治癒”に使ったこと。度々考えている、女性原理的なるものの存在を意識させられる。
英語のcureの語源のラテン語cūraは女性形だった。
過去作のジェダイらは誰も治癒にフォースを使っていない。レイ(女性)だからこそできる表現だったのではないだろうか?
それがカイロ・レン(ベン)のトラウマを払拭させる布石にもなる(ハン・ソロの霊?幻覚?との邂逅で確固たるものになるが)。
女性原理的なものが、閉塞した男性原理的なもの(ヒエラルキー、二元的な分断、対立)に対して風穴を通す。女性であるレイが主人公である以上、そういう見方になってしまう……といったらそこまでなのだが。
これは私が「見たいもの」に過ぎない視点ではあると思う……この新3部作が始まってからずっと気にしていた事だから(※2)。
古典的な英雄譚が終わり、新しい風を吹き込むもの――現代を鑑みれば、女性の社会進出に伴う価値観の変化――を映画の中に見いだしたいという、わたしの思いが……
やっぱりレイア姫(将軍)役のキャリー・フィッシャー氏の突然の訃報がよろしくなかったのだろうか……
レイアとレイの母子のような共感関係が凄く物語のキーになりそうだったのに。
王道の英雄譚として
それでも王道の英雄譚としての要素は崩さないように、意識的にしろ無意識的にしろ、仕上げている。
すなわち、ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』に指摘される、英雄の帰還のためには多くの試練がある――レイの逃亡と拒絶、ベンの丸腰でレイを救出に向かうこと、フィンとポーの無謀な戦闘への実の投じ方――こと。そして「「現世と異界、闇と光、一と全、父子関係が対立構造を成しながらも、英雄がここを行き来することで新たなる力が得られる」という結果だ。
このジンテーゼを獲得する流れは、今回の映画で大きな位置を占めているわけでは無かったが、ちゃんと表現されている。それは事実だろう。
決定的な表現は、たとえパルパティーンの血であってもジェダイになれる(血統は関係ない)という話に着地したことだろう(すごく分かりやすいオチだが)。
映画の最後、彼女が手にするライトセーバーが黄金色になったのは何故だろう…?私は未プレイなので不確かなのだが、スター・ウォーズのオンラインゲームで黄金のライトセーバーを持っていたストーリーオリジナルキャラ(双子の男性キャラクター)がいたように思うのだが、それと結びつけたのだろうか?(誰か情報求む)
それとも、新たな可能性の示唆なのか……それは見ている人に委ねられているようだった。
EP9おわた
山ほど映画観てきて、今まで経験したことのない経験させてもらった。当該三部作の中では(活劇)映画としては一番面白いのに、あまりに酷すぎて頭から終わりまで脱力し続けるという経験。余程の作品でないとエンドロール終わりまで見届けるのに、見ずに出てきてしまった。しかもSWなのに
https://twitter.com/500zoo/status/1208984107163648000( 2020/9/7確認 )- 【過去日記】映画『スター・ウォーズ / 最後のジェダイ』感想【過去日記】映画『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』感想