映画『ヴィオレッタ(原題"My Little Princess")』感想
公式サイト:
http://violetta-movie.com/
ゴシック・ロリータ写真集の金字塔、イリナ・イオネスコ『エヴァ』は私の本棚にもある。
そのモデルを務めたエヴァ・イオネスコによる長編映画だ。
しかしこの映画は写真集にあるロリータのエロティシズム、ファム・ファタールを表現した映画ではない。
これはエヴァの自叙伝であり、母娘の癒着と葛藤の物語だ。
観ていると、吐き気が込み上げてくる。
娘を愛しているのは分かる。
しかしそれは母親の「自己愛」の延長としてだろう……
自我の形成と性の目覚めの思春期になり、ヴィオレッタは性的嫌悪と母親の癒着に気づく。作中でも言葉として語られないが。
日本のキャッチコピーに使われている「私はママのモノじゃない」は、作中のヴィオレッタが母に言えず仕舞いの言葉だ。
『毒になる母親』
映画『メランコリア』感想でも書いた、キャリル・マクブライド『毒になる母親』がこの映画にあるものを読み説いてくれる。
この本で、母娘関係とは同性であるが故に、母親が自分が果たせなかった願望(自己愛)を娘に転嫁してしまう事を指摘している。
セラピストである著者がその例として挙げていたケースには映画と似たようなものが多々あった。
冒頭に抱き合う三世代の女たち。曾祖母、母、娘。その姿はクリムト《(女の)人生の三段階》を彷彿させる。
そこに脈々と受け継がれてしまった母娘の負の遺産を垣間見る。
母・アンナは物事が上手くいかなくなると他人のせいにし、体調を崩しやすい。(明らかにヒステリー)
そして「バアバ(曾祖母)は私をちっとも見てくれない!」と叫ぶ。
事実なのか判らないが、アンナが性的虐待を受けていた事を仄めかす。
信仰心篤い曾祖母は、その信仰をもってヴィオレッタに救いをもたらすことはない。
何故なら曾祖母は神に祈るだけで行動せず、母・アンナもその娘・ヴィオレッタの事も見ていないからだ。
「母は娘を見ていない(自己愛)」その負の遺産を赤裸々に描いていた。
この映画は、エヴァ・イオネスコの母親から心理的に分離したいという願望と、その作業ではないだろうか。
「ヴィオレッタ、愛してる!」
映画のなかで叫ぶ母親から走って逃げるヴィオレッタ。
それは癒着した母を切り離そうとしている行動そのものに他ならない。
この映画に結末、終着はない。
それはヴィオレッタ=エヴァ・イオネスコが母親との分離を果たしていないためなのか、あえてここまでしか描かなかったのか、私には判らない。
私がエヴァ・イオネスコの世界観を知らない事、映画のヴィオレッタ独自の世界観なるものが判然としなかったためだ。
ヴィオレッタの「これが私である!」という自己表現。自立が未完成なのか、描かれていない。
心象風景
エヴァ・イオネスコの世界観は、心象風景と密接な風景や室内描写だろうか?
私は彼女の短編映画を拝見したことがないので、判断できない。
ヴィオレッタの暮らす都市風景など、幻想的かつ清涼感がある。
『クリムトのような』と前述したが、それはおそらくアンナ=イリナ・イオネスコが影響を受けた世界観を象徴している。
作中のアンナのアトリエ。黒い壁紙に遮光カーテンで閉ざされ、アールデコ風の家具や鏡、髑髏やマネキンなどが並ぶ退廃的な世界。
映画前半はそれらに魅せられるような、耽美な香りに包まれる。
母娘の会話にあるジョルジュ・バタイユやルイス・キャロルなど、キーワードがそれを補強する。
児童虐待のかどで裁判所から保護者失格の烙印を押しされるアンナ。
ヴィオレッタの親権を失いそうになり、助けを求めた弁護士が訪れ、母娘の家となったアトリエの閉ざされたカーテンと窓を開くと、現実が光と共に差し込む。
そこは生活感が無い部屋だった。母の世界だけで、娘の世界が無い部屋である。
母娘の関係性を如実に表していた。
2012年にエヴァ・イオネスコが母を告訴していたことを、この映画公開前に知った。
裁判では勝訴し、母であるイリナ・イオネスコに損害賠償とネガフィルムの引き渡しを命じる判決が出ている。
この映画はそこに至る前日譚のようだ。
エヴァ・イオネスコはこの映画を描くことで、彼女は母親と分離し己を取り戻そう としているのだろうか?
『毒になる母親』には、アンナのような自己愛傾向の強い母親に育てられ、傷を負った娘たちへの、自己回復に関するプロセスを丁寧に書いている。
それに基づいて観ていると、ヴィオレッタは「悲嘆のプロセス」と呼ばれる、母親からの分離を果たすための前段階に入っているように思える。
分離し、自分らしく生きて自己肯定をしなければ、自己の回復、母娘の負の遺産を断つことはできない。
エヴァ・イオネスコ自身の体験を描いた映画である故のリアリティは、膿んだ肉片を引きちぎったような映画だった。