大植英次「第九」2022 Japan General Orchestra 旗揚げ公演 Part2
クラシック音楽専門インターネットラジオ OTTAVA様から招待券を頂き、鑑賞。
ありがとうございます!!
新しい楽団の旗揚げ公演・第二弾。
初台・東京オペラシティコンサートホールにて。
日本ではおなじみ(本当に日本だけだが)の、年末と言えばヴェートーベン「第九」コンサート。
年末のBunkamuraオーチャードホールでのカウントダウンコンサートでも、度々演奏されている。
ずっと生演奏を聴きたいと思っていた。ようやく叶った…!感無量。
ヴェートーベンオンリーで曲目は「エグモント」序曲 op.84、そして交響曲第9番。
「エグモント」は本来、劇音楽だが通常は序曲のみしか演奏されないそう。
何となく、日の出を彷彿させるような――序曲なので始まりを予感させる曲だからなのか――音楽だった。
この後に演奏される「第九」に通じるものがあるのだと思った。それは同じ作者ゆえの共通性から来るものとは違うような……
鑑賞後に調べて16世紀後半、カトリックとプロテスタントの対立が激化していた頃、フェリペ2世が支配するスペインの圧政下に置かれたネーデルラント17州(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどを含む地域)の貴族のエグモント伯爵は、民衆の自由を守ろうとしたために処刑されるという悲劇である。(※1)
と知り、納得した。
個人の自由――その謳歌と生きる権利――を肯定する物語。ウクライナ侵攻に香港で報道の自由の制限などが現在進行形で進んでいる現在。強い不安に対する反骨精神に通じるものがある。
そして、それらをはね除け自由を肯定する未来…「第九」に繋がっていく。
「第九」の合唱が始まる前に、ソプラノ、アルト、テノール、バリトンら声楽家が、オーケストラの後方に現れた事に驚いた。
せっかくの声楽が、楽器の音に飲み込まれてしまうのでは?
しかし、このコンサートはあくまで旗揚げ公演なので、オーケストラがメインで良いのだと考えを改める。
第一楽章から通して聴くと、まるで山岳信仰…登山をしているような気持ちになる。イメージが浮かんでくる。
第一楽章が険しい山道。
第二楽章が中腹に現れた草原のような場所でひとやすみ。
第三楽章は山頂に至り、天を仰いているような…雲海を足元に、さらなる高み――それこそ形而上の世界――が近いような雰囲気。
そして第四楽章はそれら一連の経緯すべてまとめ(肯定し)、いざ高みに至る事を、人の声と共に天へと響かせる。
…といった具合に。
前列中央だったので、オーケストラの響き、その振動をより間近に感じる席だった。
それも相まってか、感極まるものがあった。
演奏後は拍手が鳴りやまなかった。
このコンサートとジェネオケのコンセプトは「生きていることに、歓喜しよう」です。
わたしたちはコロナで生命的な危機を体感し、また海外では戦争もあります。でも、わたしたちはこうして生きている。生きているということは未来に可能性がある。その事実に歓喜しようという意味を込めました。
本日は年末行事ではない「第九」をどうぞお楽しみください。ジェネオケ プロデューサー 結月美紀(※2)
現実世界は歌詞のように、基のシラーの『歓喜に寄せて』のような理想郷に向かうには程遠い。
寧ろ、シラーも感じたのであろう戦争の悲愴から今も逃れられない人類。
例年は来年への希望を込めて〈歓喜の歌〉を聞き入る事が多かったが、2022年はコロナ禍も収まっていない上に、ロシアのウクライナ侵攻という衝撃的な事が起こってしまった。
だからこそ、願いを込めて聞き入っていた。
終わった後、会場でチラシを拝見していたら、やはりと言うべきか、ほとんど「第九」公演のものだった。
横浜みなとみらいホールでも「第九」の公演がある。それはウクライナ国立歌劇場によるものだった。戦時下でもキーウで公演を続けている。海外で活動を続けている点を評価する報道があった。
今のウクライナの現状も含めて、「第九」を歌う意味をどうしても考えてしまう。
言わずと知れた名曲、それ故に幼少から1度は聞いたことがあるのだが、『新世紀エヴァンゲリオン』に冲方丁『ばいばい、アース』のイメージまで付随して、壮大な世界観――神への信仰、人類愛、自己の確立――から感動に打ち震えた。
そういえば、『ばいばい、アース』のアニメ化プロジェクトが発表された(※3)。
クライマックスで〈歓喜の歌〉を交えた終盤の戦闘シーンを、壮大な合唱と共にアニメ化して欲しい。
このところ、1年前の出来事に関する溜まった記事を書いてばかりだったので、久しぶりにほぼリアルタイム?な記事を書いた。
それでも年内に2022年の出来事を全て書き終えそうにない。
- 大植英次「第九」2022 Japan General Orchestra 旗揚げ公演 Part2 パンフレット