ハマスホイとデンマーク絵画
公式サイト:
https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_hammershoi.html
https://artexhibition.jp/denmark2020/
まだまだ終わってしまった展覧会の記録消化がつづいているけど……
私は辛うじて観に行くことが出来たけれど、その後、世の中が未知のウィルスに不安になって世界がロックダウン、自粛していって、東京での展覧会は中止になってしまった……
早めに行けてよかった。
ハンマスホイ展。私は前回行かなかったことを後悔していたので、たのしみだった。
観に行く前のハンマスホイの絵画のイメージは、屋内風景と、女性の後ろ姿しか見えない構図のもの。そこにシュルレアリスムの画家・マグリットのようなものを見いだすのではないかと想像していた。会場ではそれらが覆されていく。
静謐な室内情景は、クノップフ《見捨てられた街》(※1)に見る世紀末美術のような衰退と哀愁、廃墟美学から来るものではなかった。
デンマークの人々が大切にする「ヒュッゲ(Hygge)」(会場での表記は「ヒュゲ」)という生活スタイル……無理に背伸びした、限界の無い高みを目指すものでも、家庭という同町圧力に縛られるものではなく、自分を見つめ直し、家族を大切にする時間に価値を置くものだった。
会場に展示されている絵画たちは、全体的に彩度が抑えられながらも明るく温かみがあるものだった。それらを通して、ハンマスホイの絵画の魅力と、ヒュッゲを感じる仕立てになっていた。
家族との団欒
コンスタンティーン・ハンスン《果物籠を持つ少女》は白いリボンが巻いてある麦わら帽子を被り、プラムのような果物を沢山入れた籠を手に持った少女の肖像画。ヒーザー色のワンピースと下へ向かって暗くなっているサロー系の背景色の中で、血色の良い白い肌に光があたっており、目をひく。
映画『アメリ』の中にも出てきそうな絵だと思った。
ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《朝食――画家とその妻マリーイ、作家のオト・ベンソン》に描かれた、北欧の家具調度品の素朴さ。寒色系の青と暖色系の黄色が主に使われた、調和がとれた色彩構成が鮮やかで目をひく。それはフェルメールの絵画を思い出させる。
画面手前の青い服を着た男が画家、奥の黄色い服の女性がマリーイ。二人は画面右にいる作家の話に耳をかたむけている。
家族ではないが、親しい友人との団欒の光景はとても和やかな雰囲気が伝わってくる。
会場ではデンマーク絵画に見る家族の団欒風景、屋内風景、転じて屋外……風景画が多数展示されていた。
それらに華美さや自然の雄大さはなく、どれも素朴で庶民に寄り添うような等身大の空気があった。
風景画もまた、長閑なひと時を満喫する時間帯が多かった。
その理由は北欧特有の、極夜にあるようだ。
光への飢餓感
フェルメールの絵画に見る、カメラオブスキュラ利用による光の強調が、日照時間が少ないヨーロッパにおける“光への飢餓感”からもたらされていること(※2)は、このブログでも度々取り上げている。冬になるとそれが如実で極夜になる地域が多い北欧では尚更だろう。スウェーデン出身のマンガ家・オーサさんも度々言及していた(※3)。
ハマスホイ《農場の家屋、レスネス》は、白い壁に反射する強い光を感じさせる。空でさえも光を反射しているようで深い青ではない。まるで白昼夢の中にいるような、光で我を失うような世界に見えた。
人気の無さからくる暗示性はクノップフが描いた風景画に通じるものがある。しかし陰鬱な感じはしない。この光のイメージはもしかしたら、時代が下ってキリコ《通りの神秘と憂愁》(※4)の光のコントラストに受け継がれているのかもしれない。
なぜデンマーク人は、ここまであかりにこだわるのでしょう?
それは10月から3月までの間、ずっと自然の光を浴びられないからです。この間、デンマークは暗闇に包まれます。(中略)
ヒュッゲは、寒さの厳しい冬、雨の多い日々、分厚いベルベットのような暗闇をどうにかする対処法なのです。ヒュッゲは1年中暮らしと共にありますが、とくに冬場は生活に欠かせないものになります。生き抜くための手段と言いかえてもいいでしょう。
マイク・ヴァイキング『ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方』 2017 三笠書房 p.14
前述、フェルメールとも共通の印象を持ったわけだが、もう1作品それを意識させる作品があった。
ユーリウス・ポウルスン《夕暮れ》は、暖色系の夕焼けの空を背に、暗い影になった樹のシルエットが描かれている。その姿がピンボケの写真のようになっている。それこそ、当時のピンボケしたモノトーン写真を見ながら(カメラを通した表現を)描いたのではなかろうか……?
しかし、キャプションにそういった解説は無かったので、真相は謎のままだ……
日本人は余暇の過ごし方が下手だとよくいわれていますが、もしかしたらそのことと公園がすくないこととは関係があるんじゃないか。まずそう思いました。
(中略)
あれこれ思いを巡らせましたが、そのときぼくが立てた仮説は、日光を浴びる必要がないからじゃないか、ということ。
ニューヨークやロンドンは、東京より高緯度に位置しているから、日照時間が短いそのため、貴重な日光を浴びられるときに浴びておこうと、公園をたくさんつくって、日光浴をする習慣がうまれたんじゃないか。水野学『「売る」から、「売れる」へ。水野学のブランディングデザイン講義』2016 誠文堂新光社 p.139
19世紀の鉄道開通による旅行ブームなどは都会の喧騒を離れ余暇を楽しむだけでなく、光への飢餓感とも密接に絡んでいたのかもしれない。
印象派が避暑地や公園に集う人々を描いたのも、無意識にそうしたものを求める人々の空気を感じ取っていたのではないかと想像している。
夏の盛りの明るい白夜が終わり、寒い冬の極夜に入ると、自ずと部屋に籠ってゆく……
家――屋内の情景
後半に展示された、ハマスホイが描いた誰もいなくて何もない部屋の作品群。
《室内―陽光習作、ストランゲーゼ30番地》の光の表現……‘習作’とらあるのに、これで完成されているように思う。
曇ったガラス窓から差し込む光の表現に目を奪われる。強い昼時の日差しと暖かさが伝わってくる。窓から入った光は床に白く反射し、窓枠の影を落としている。
私はこの作品で“ああるはずのものが無い”ことに気づけなかった……扉の取っ手が無い。習作だからだろうか…?壁のような、まるで出ることを拒まれている……密室、閉じ込められているという危機的状況を想像する。
《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》は、同じ家の屋内を描いたものだろうが、また雰囲気が違う。年季の入った床板と変色しているドアの雰囲気に、いなくなった人の気配、息遣いを感じる。
この部屋にこれから入る人なのか、去ってゆくのか……鑑賞者はどちらに共感するだろうか。
哀愁漂う感覚は無く、残り香やぬくもりが伝わってくる。
開け放たれた扉、そこから垣間見える他の部屋に、人の影を探してしまう。
一番奥の部屋には大きな窓があるらしく、そこからも光が入ってきているようだ。絵を鑑賞していると、私たちの後ろからも光源があるように感じる……この部屋と私たちは知らず光に包まれているようだった。
コロナ禍で”STAY HOME”が叫ばれるようになって、屋内で家族と心地よく過ごすことを念頭に置いているヒュッゲにも絡めたこの展覧会は「何とタイムリーな主題だったのだろう」と思った。皮肉なことに”STAY HOME”ゆえに展覧会場に足を運ぶことも、後半には中止になってしまったのだが。
そして北欧の極夜と対を成すは白夜……
この1か月ほど後に、かの話題映画『ミッドサマー ディレクターズカット版』を観に行った。それについてはまた後ほど書くつもり。
- Fernand Khnopff"Une ville abandonnée" (フランス語)
https://www.fine-arts-museum.be/fr/la-collection/fernand-khnopff-une-ville-abandonnee (2020/10/14確認) - 【過去日記】北川健二『フェルメール絵画の謎の本質を読み解く』
- 北欧女子オーサのマンガ『ニッポン発見紀行』 スウェーデンのインテリア事情 | THE VOLVO LIFE JOURNAL
https://v-for-life.jp/asa/28/ (2020/10/14確認) - 《通りの神秘と憂愁》ジョルジュ・デ・キリコ|MUSEY[ミュージー]
https://www.musey.net/5318 (2020/10/14確認)