『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想

白黒イラスト素材【シルエットAC】

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』チラシ3

過去日記を絶賛消化中……


去年からのコロナ禍で上映が延期し、ようやく公開…!
そして全てが良い意味で予想外の展開だった。
観ている人間、そしてエヴァの登場人物たちの四半世紀(25年分)のエヴァの呪縛(トラウマ)の克服を、この1作・2時間半の中に収めてしまった。
観終わったあと「ふざけんな庵野監督!!w」(反語)と叫びたくなる位に。

今回も、公開前から冒頭を公開してくれたので、期待値は十二分だった。アクション満載であっという間に惹き込まれる。
エヴァ特有のもろもろの謎の解明よりも、やはり特筆すべきは主人公・碇シンジの欠けた心(トラウマ)の克服だろう。

前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下、『Q』)、ニア・サードインパクトを起こしかけた罪滅ぼしをしようとした結果、再び同じ結果を引き起こしかけた事や、友人を死なせてしまったという(不本意とはいえ)罪を自覚するシンジは苦悩…というより消沈している。
まるで旧劇場版(以下、『旧』)をまとめて追体験するような展開。
TV版、『旧』では傷つき苦悩する彼に寄り添う人間は皆無になる。
だが、今回は違う。

『Q』でネルフに居たシンジの周りには人気が無く、生産も滞っているためかペースト状の保存食や既存品の衣服が提供されていた。その閉塞感の中で、シャツに記載されていた友人「トウジ」の名前。
観ているこちらとしては、『旧』シンジの友人たちがいなくなってしまったと思い戦慄する。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、『シン』)の冒頭、アスカに先導されて赤い世界を徒歩で移動し、迎えに来た防護服の人物の声は何処か懐かしい…
その後、目が覚めたシンジは、15年ぶりに――15歳大人になった――友人、トウジとケンスケらと再会する。 その後の展開が怒涛だった。

『Q』の孤独感、閉塞感はTV版と続く『旧』を彷彿させ、友人たちがいなくなってしまったと思ってしまった。
しかし、大人になった友人たちと、シンジは再会する。
年上の、それこそミサトや加持と同じような年齢差で。この年齢差と友人という関係が、シンジを救う。

エヴァあるあるだが、戦闘と普通の日常パートが交互に来る。
その日常パートが、今回はあらゆる意味で衝撃的だった。ニア・サードインパクトの影響か、それまで近未来的な整備されたハイテク都市の雰囲気が無くなり、まるで戦後復興時のような光景……古いもの、壊れているがつかえるもの、あるもので補い合って生活している人々の姿。
すごく牧歌的に映った。まるでジブリ作品を思わせる人の手で直接行う農作業の工程が描き出されている。
今までにない展開に違和感を覚えつつも、無機質な世界に生き続けていた綾波レイが“人の営み”に加わっているという事が、彼女の孤独が昇華される過程であることに気づかされる……

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』チラシ1

そうした中で、シンジが無言で自省している様が印象的だ。

かつてTV版で心象風景や卑屈な言葉で何度も語られたものを想起させられる。
『旧』の大人たちは人類補完計画の事(実行に移す側も、阻止せんとする側も)もあり、自身の役割や信念に注力せざるをえず、傷心のシンジの手助けはできない。むしろ大人たちの目的遂行のために参加を求める(ネルフ、ゼーレ側)か、排除(戦略自衛隊側)しようとした。そこにシンジの意思はない。
だからこそシンジは唯一の抵抗手段としての無気力――拒絶――を行使する。考える材料も、傷心を克服もできていなかったから。
『Q』でも少し描写されていた不安と外圧は、それを容易く想起させ、観ていると不安に駆られた。
しかし、『シン』ではそれまで皆無であった、手を貸せない大人たち以外の大人がいる。反NERV組織・WILLEのような軍事組織ではなく、普通の人の営みに携わる人間。

そしてシンジをのけ者にせず、また強制せず、そっとしておいてくれる。

朽ちたNERVの格納庫が時間の経過をものがたり、かつ早送りで時間の経過が描写されている。
この長い時間の経過――休息――が、シンジの心の傷を癒している事が伝わってくる。

「何で…何でみんな、僕に優しいんだ!!」
「みんな、碇君のことが好きだから」

この台詞に今までの『エヴァンゲリオン』シリーズの苦悩と心の傷が昇華されるようだった。
レイがこの言葉を言う事も必然というか…リリスそして碇ユイの魂の分身でもある彼女が、母性というか、その事実を指摘するのは。

その中で、大人になったケンスケが「エヴァに乗る」以外の何かをする事を促し、自主的に釣りをしたりするシンジ。直接の描写は無くとも、トウジも関わり、それがきっかけとなって他人と交流するようになった感じがある。

癒され、徐々に活力を得ていくシンジに対し、避けられない仮称レイの死。それは決してシンジの心にマイナスにはならず、むしろシンジの決意と選択に繋がる。

その後のSF戦闘も色々思うところがあるのだが、それらをすっ飛ばしても、衝撃的だったゲンドウの心象風景。
観ていて「何でこんなにゲンドウが饒舌なんだ?」と思っていたが、ガフの扉の向こう側は、全ての人の心象(その風景ともに)が筒抜けになるんだった…
語られる孤独感や閉塞感は、シンジの相似形というより、60~70年代くらいの空気(庵野監督の時代というべきか?)を彷彿とさせられた。その親世代が戦争経験者で、戦後復興に邁進し、家庭環境を顧みない核家族。家族、親子間でさえ断絶感がある家庭環境を感じさせた。

その中でユイへの愛情や、シンジへの接し方に己を重ね、どうしてよいか分からず拒絶してしまった事を告白し、ユイの気持ちと悔恨…からのその事実と想いを受け入れる。
「すまなかったな、シンジ」
そのセリフは『旧』では決してシンジに伝わらなかった言葉が、ガフの扉の中においてシンジの心に伝わったであろう事も感慨深かった。…TV版最終話のように「父に、ありがとう」は言えない(言う必要もない)けれど……

まさかの親子関係のみならず、ゲンドウのトラウマまで昇華させ、人類補完計画に終止符が打たれる。

映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』チラシ2

そして『旧』と真逆の事が起きる。
『旧』において作中でシンジの心は昇華されず、世界は閉じてしまう。観客もまた未消化のまま、現実世界に放りだされた。中途半端な虚構(物語)の中に置き去りにされ…そのせいだろうか、25年も引きずったのは……

しかし『シン』はシンジだけでなく主要人物の欠けた心――トラウマ、心の傷――を昇華させてゆく。
すなわち、各々が抱えるトラウマを自覚させ、そこから願望や行動原理が生まれていることを反復し、それらに対して別の可能性があることや、優しい言葉がけをする。そこには各々のキャラクターに対するシンジの謝辞もあった。

レイの孤独とシンジの望みを叶えるという呪縛を解消し、
アスカの排他的な孤独を理解し、「僕を好きになってくれてありがとう」と感謝の言葉を述べ、
カヲルの使徒である孤独と、(TV版『最後のシ者』や『Q』での罪悪感もあってか)シンジを救う事で自らも救われようとした事を認識させ、
各々のキャラクターにこれから別の可能性があることを提示して送り出す。

エヴァやシンジに囚われない別の可能性を。
『Q』で語られた「エヴァの呪縛」――設定的にはコア化のようなもの、使徒ないしエヴァの影響による不変(不死)――によって、エヴァパイロットである宿命から解放される。
これはTV版の最終話『世界の中心でアイを叫んだけもの』で最後にシンジがたどり着いた可能性。
それがようやく成就した。

新劇場版のエヴァシリーズはカシウスの槍によって、その存在に終止符が打たれる。
……若干、デウス・エクス・マキナのようにあっという間に都合よく消えてしまうのが良いのか悪いのか悩ましく感じたが。
「エヴァを無くす」事で「エヴァの呪縛」からも解き放たれたキャラクター達。

最後は成人したシンジとマリが、現実に向かって走り出す。 観ている私たちもまた、現実に還る足掛かりをようやく得たように感じた。


ガフの部屋の先、ゴルゴダ・オブジェクトとの邂逅と、そこでのシンジとゲンドウの戦いは“庵野監督らしい”表現だった。
戦闘シーンが突然、特撮撮影スタジオの中の出来事になる。
「特撮好き」の庵野監督らしい表現でもあるし、現実(リアル)虚構(フィクション)が入れ子になっている、という点において。

現実世界(リアル)の中で物語(フィクション)は作られるが、その虚構(フィクション)の中に現実(リアル)がある。
シン・ゴジラ』で“現実 vs 虚構”というキャッチコピーを打ち出していた。『シン・ゴジラ』は現実に起きた東日本大震災を観るものに想起させ、ゴジラという存在以外は、徹底的にリアリティに拘っていた。
映画である以上『シン・ゴジラ』はフィクションである。だが、そこに描かれた日本の政治のぐだぐだ感、ままり馴染みが無いであろう自衛隊の指揮系統や動きはリアルに基づいていた。

リアルがフィクションを作り、フィクションの中にリアルを見る。
相反するようなものが対立構造にならず入れ子になっている。

物語は、ちょっとの真実(リアル)と大体の(フィクション)で構成されている…そして良質な物語はその世界に観客をのめり込ませリアリティを感じさせる。

庵野監督の手腕に改めて敬意を。
そして完結に導いてくれて「ありがとう」

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