『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』
以前の日記にも紹介したものであるが、2巻目にして怒涛の展開だった。
感動してしまい、思ったこと書いておく。
【過去日記】
フレッチャー・シブソープ展(描かれたフラメンコ/闘牛とフラメンコ考)
―1巻あらすじ―
女闘牛士の物語。
同性の恋人に裏切られたチカは自殺を試みていた。彼女を保護した男・アントニオが「男だったら、闘牛士にでもするつもりだった」といったことから、闘牛場に死に場所を求めて「闘牛士になる」と宣言する。
ここから2巻内容も含みます
2巻ではチカの半生が語られる。その導入が、神秘的だった。
それはチカが夜明け前に牧場近くで対峙した牛から始まる。
突然、ページが暗転し夢現の状態になり、牛が問う。
『お前は誰だ?』
その言葉をきっかけに牛とチカが“対話”をする形で回想が始まる。
夢の中の、ひいては心の中で自己対話のような心象風景。
この様式は弁証法、問題を洗い出し、打破する通過儀礼だ。
それは『インセプション』『インモータルズ―神々の戦い―』にも見られた
迷宮神話、『テセウスのミノタウロス退治』でもある。
【過去日記】
映画『インセプション』考察
映画『インモータルズ―神々の戦い―』感想
すなわち、迷宮(心の中)でミノタウロス(死や己の心の闇)と対峙し、これを斃す(克服する)テセウス(自己)である。
ミノタウロスである牛に「チカ」というあだ名から「マリア」という本名が明かされ、『牛の命を奪い続けて、お前の命にそれだけの価値が?』と問われた時、闘牛士では無い自分が“何もない”事を知り、今の自分の死には価値など無いという事を自覚する。
その後、アントニオやライバル・ヴィセンテとの対話を経て
再び牛と対峙したマリア・チカは今度はちゃんと答える。
『自分のために闘って 自分のために死ぬ』
この事は自分のため生きるという事を宣言したに他ならない。
彼女が己を見つめ、大人になる瞬間でもあった。
牛(ミノタウロス)との対峙無くして人間的成長はありえないのである。
神話からある普遍の通過儀礼、それが描かれていた。
それをきっかけに何者でも無い「チカ(La Chica/女の子)」から「ゴロンドリーナ(La Golondrina/つばめ)」という名をもらい、彼女はいよいよ羽ばたく――闘牛場へ。
丁度、再び人生に迷いを感じていた矢先、己の力で道を進みだしたこの物語は心に響くものだった。
神話から離れて。
闘牛にはもうひとつの“生きる”事について考えてしまう。
闘牛批判と屠殺の問題である。
今は動物愛護の観点から批判も多い闘牛だが、ただの道楽、ブラッド・スポーツではないと私は考える。
食肉としての牛を人間が生きるために生き物を殺す現場でもあると。
闘牛を終えた牛は闘牛場を出ると、食肉用に解体される。
動物愛護の非難もあり、最近は殺さない闘牛もあるそうだが、闘牛で殺さなくとも最終的には屠殺するそうだ。
ここで「見えない所で殺された牛は良くて、屠殺を目撃すると非難する」という矛盾が出てくる。一体何をもって「残酷ではない」のか。
スーパーに陳列された、滴る血が拭い去られた不自然な肉。
闘牛のルーツは定かではないようだが、そこに屠殺に関わる民族の影響、春の訪れを祝い、重要な位置に牛を置いた半祭、半魔術的なモノのルーツもあるようだ。
CORRIDA DE TOROS(日本語)
http://www.spainnews.com/toro/
そこに込められた思いは、生き物を殺して糧とし、生きる事を感謝する、肯定するものもあったのではなかったか?
何にせよ、ルーツの1つに謝肉祭的なものがあるのなら、私は生き物を殺した肉を食べて生きている事を自覚するために見届けたい。
以前、観光でスペインを訪れた事があるが、美術鑑賞が主体だった。
今度は闘牛とフラメンコを観に行きたい。