『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻感想/考察

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Golondrina-ゴロンドリーナ- 5 (5) (IKKI COMIX)

えすとえむ『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻が発売。
読了後、感無量だったので感想……というより、考察など。
大分、5巻のネタバレ……

闘牛での“事故”でライバルのヴィセンテが「闘牛ができなくなる」と聞き、戦慄するチカ。
恐怖から目を逸らすようになっていた。
恐怖との向き合い方が分からないチカは、闘牛反対運動の集会を目撃する。

遂にスペインにおける闘牛批判についての描写が盛り込まれる。
牛を人に置き換えたパフォーマンスや「牛を殺す娯楽」という言葉。
チカがCDを持っていてるシンガーのジョラは反闘牛活動家で、チカとジョラは親しくなる。
ジョラとの関係は、チカの過去の同性の恋人・マリアとの関係を思い出させ、依存のようになってしまうのではと読んでいて不安になる。
チカの場合、女だけの世界は、自閉した関係でしかないように思えてならない。

それ以降、チカの闘牛のスタイルが自閉したものになり、アントニオが珍しく語気を荒らげる。
「自己中心的になるな」「今のお前の闘牛は、ただの殺しだ。」と。
そこに闘牛が「牛をなぶり殺す」事が主体ではない事が示唆されていると思うのだが……

傷を負い、それを克服できず、周りを傷つけるチカ。
アントニオはそれを見透かしていた。

紆余曲折の後、ジョラに連れられ、闘牛反対運動の集会で発言するチカ。
それは「牛を殺すこと」云々ではなく、「それでも私は闘牛士でありたい!」という、自身のアイデンティティーの確立を宣言するものだった。
闘牛批判に対する反論でも、闘牛の正当性を主張するものでもない事に感動してしまった。
これは2巻における牧場の牛との対峙のように、ミノタウロスというトラウマの克服の反復であり、その延長に他ならない。

【過去日記】
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――ミノタウロス

元々「牛に殺される」ために闘牛士になりたいと言っていたチカ。しかし「闘牛場は「死にたい」なんて気持ちだけで立てる場所じゃない」とチカは言う。

ヴィセンテの“事故”を受け、ただ牛を殺すだけの闘牛をしていたチカ。
「闘牛ができなくなり、死ねないかも知れない」という自分の恐怖と不安から目を逸らしていたためだった。
自分が生き残るために牛を殺す訳でもなく。
まるで黙々と屠殺をする機械同然だった。

アントニオに連れて行かれた牧場の、練習用の闘牛場に立っているヴィセンテの姿を見て、チカは恐怖を克服する。
それがチカにとって何故、怖くなくなったのだろうか?この巻では明言されていないが……

この巻では、キャラクターが各々の“傷”をいかに克服していくかが語られている。紆余曲折を経て。
アントニオにとってかつての教え子の闘牛士である“フランチェスコの死”はもはや“過去”になりつつあるように。

チカが闘牛場で生きるか死ぬか、雄牛との関係の中で何を見出すのか――
このコミックの中で、チカは一度も「生きたい」と言っていない。
チカはヴィセンテの「闘牛場は俺達の生きる場所だ」と言う言葉の意味を理解する事があるのだろうか?

このコミックに出会ってから、闘牛についてより興味を持ち、関連する本を読んでいた。
絵画などイメージにおける闘牛に始まり、その精神について、フラメンコとの関係性、その批判の理由や反論など……
闘牛批判については別途書きたい。

もしかしたら、次の巻で闘牛士殺しと名高いスペインのミウラ牛牛が出てくるのではないだろうか……
物語における重要な闘牛士・フランチェスコを殺した牛の事がある。第1巻に出てきて、それ以来語られていない牛がいる。
1巻で「いい動きをする牛は殺さずに牧場に返す。その種を後に残すためにな」「闘牛士は死んで、牛が生き残った」という台詞。
その牛の血脈が、チカの前に立ちはだかる。そしてその牛はミウラ牛ではないかと、勝手な想像をしてみる。

連載雑誌の休刊という、勿体無い話で、この巻が最終巻になってしまうのかと思っていたが、何と!2015年夏に、全編描きおろしで刊行されるとの事!!
嬉しすぎ。
連載雑誌の休刊で、連載打ち切りになったお気に入り漫画があったので……

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