ジョルジョ・デ・キリコ 変遷と回帰
公式サイト:
http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/14/141025/
パナソニック 汐留ミュージアムにて。
http://panasonic.co.jp/es/museum/
……終わってしまった展覧会だが、備忘録として。
「形而上絵画(メタフィジカ)」と称される様式を確立したキリコ。
シュルレアリスムの画家たちから絶賛されたそれを、ある時を境に離れ、画風を古典主義に回帰させた後、再び立ち返るキリコの作風を見る事ができる展覧会だった。
極端にメジャーな作品が来日している訳ではないが、流れを掴む、その試行錯誤の片鱗を垣間見る。
会場入って直ぐのところに、形而上絵画を発見した時の作品。
《謎めいた憂愁》
1918年に他界した、詩人アポリネールへの追悼作品らしい。
象徴主義の影響も感じた。
冥府に魂を導くヘルメスの胸像が、物に挟まれた細い空間から覗きこんでいる。無関係なガラクタは置いておいて、通路のような空間に黄泉路を想像してしまう。
最早、そこしか行く場所がなく、閉鎖されたような緊張感と憂鬱があった。
この奇妙なガラクタは、何か図形のようなものとみなすべきなのだろうか?
アポリネールの詩集『カリグラム』を考えると……
参考:目でも読む詩。アポリネールの《カリグラム》
http://matome.naver.jp/odai/2139141270657872801
だが、そこに意味は無いのかもしれない。
無関係な事物を異なる文脈の中に置く、デペイズマンという方式をとった作風を考えると。
また、シュルレアリスムに大きな影響を与えた、彫刻家・マックス・クリンガーへの憧憬もあるようだ。
マックス・クリンガー(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/マックス・クリンガー
古典主義への回帰した作品は、キリコがアイデンティティーを問う作品たちだった。
第一次大戦を経て秩序が失われた世界にあって、その秩序を取り戻すために己を見つめ直す作業をした、といった風か。
ヨーロッパ文化の祖であるギリシャに生まれ、イタリアでローマ文明の遺跡に慣れ親しんだ彼にとっての身近な古代。その情景。
《谷間の家具》
無関係なものが、秩序立って並んでいる。
それ故に、何か法則性があるのではと凝視してしまう。
黒くイタリアらしいシンプルな装飾が施されたクローゼットの前に、肘掛けのある赤い椅子と、それよりも安っぽい白い椅子がある。
その手前には《ヘルメスの足》。遠景の馬と倒れた立柱、小さな神殿を結ぶと下向き三角形になり、家具の上向き三角形の配置と重なって、安定的な構図になる。
「人気のない風景の中に配置された家具もまた、私たちに深い印象をかきたてさせ得る」
――ジョルジョ・デ・キリコ
何の変哲もないものが、意味があるように思える――
それは個人の想起から来る戦慄か、ならば人は皆、詩人だと思う。
ネオバロック期の作品は、馬が多かった。
馬たちに‘神話や伝説に通じる幻想性と古代やルネサンス絵画に見られる記念碑性’をキリコが見出していたのではないか、と会場キャプションにあった。
それに共感する。馬に英雄や、黙示録の四騎士を思い出さずにはいられない。レオナルド・ダ・ヴィンチもまた、馬に魅せられていたように記憶している。
白馬と黒馬が並んで描かれ、それは光と影のようで、どの馬もリアルさよりもモニュメンタルなものとなっていた。
そして再び形而上絵画に立ち戻る。
それは「新形而上絵画」と呼ばれていた。
第一次大戦前のキリコの形而上絵画を複製し、微妙にモティーフを変えた作品たち。一般的に持っているキリコの画風があり、妙にほっとする。
今や“古典”となった自身の作品を、自分で模写している――古典主義の延長のようであり、
あまりにも有名な、トルソをモティーフとした作品《吟遊詩人》。
いつ見ても、緊張感を伴う。
《慰めのアンティゴネ》
『オイディプス王』のオイディプスとその娘・アンティゴネは顔のないトルソになっている。身体の中は建築物で溢れ、舞台装置のような遠景に、悲劇、演劇のイメージを重ねあわせる。
顔が無いが故に、その仕草から心象を想像してしまう。
この、顔のないトルソ。
ポーズ人形のようなそれは、シンプルな造形の中に不気味さを感じさせる。ハンス・ベルメールや、球体関節人形の可動性故の身体パーツのバラバラ殺人感とは違うものだ。
人間とは、かくも単純なものなのではと考えてしまうような。
《吟遊詩人》にも見受けられるが、キリコの作品の緊張感は、遠近法の焦点が1つの画面に2つある事や、長い影が生み出すコントラストと威圧感がある。
特にこの影の存在が大きい。
《吟遊詩人》には画面左下から長い影が伸びており、「画面の外に『誰か/何か』がいる!」という衝撃がある。
それは今、絵を観ている鑑賞者ですら無いのだ。
先日、北川健次先生の新刊『美の侵犯』を読み終えた。
そこにジョルジョ・デ・キリコ《通りの神秘と憂愁》に蕪村の俳句が添えられていた。
仰ぎ見て 人なき車 冷(すさま)じき
――蕪村
Looking out,
there was a carriage
that appeared empty and cold――Buson
キリコの絵と蕪村の俳句は何の関係も無いが、この2つが並ぶと、物語が生まれる。
手前で輪遊びをしている少女と、画面では影しか無い人物と、戸が開いた車のの関係性――犯罪性を連想させられる。
目撃者がいない通りで、影だけの匿名の人物に少女は台車に押し込められ連れ去られてしまうのではないか、という物語を。
影が齎す恐怖――
キリコの絵の影は、誰かが居るようで、居ない事を強く意識させる。
後半は前述のアポリネール『カリグラム』の挿絵(1930)やジャン・コクトー『神話』の挿絵(1934)を展示。
バロック様式の舞台装置と現代的な古代様式が融合し、舞台芸術のようだった。
長い影は無くなり、光に溢れている白昼夢のように思えた。
つらつらと書いたが、 キリコ曰く「私の形而上絵画を理解したのは、全世界で2,3人しかいないのだ」という。
その難解さがキリコの作品を魅力として引き立てる。
会期ギリギリに行ったので、何と図録が売り切れになっていた……!何でも重版、再販はしないという。
論文を読みたかったのだが……残念だ。