都議会でのセクハラ(女性差別)ヤジに対する問題提起
ここ数日、話題になっている話題について、私なりの備忘録。
男性の女性への差別的な意識と、品格への疑問だ。
根本的な問題点 ――このヤジの何がいけないのか
言って良い事と悪い事も判らない無能さである。
ジェンダー論を抜きにしても。
選挙で選ばれた議員がこれでは、世の男性の品格を疑ってしまう。
このヤジへの反論として、女性が結婚しない理由を私から言わせて貰えば、「結婚したい男性がいない」ためだ。
こんな失礼な男とは結婚したいと思わない。
ジェンダー論を絡めて考えれば、2007年1月27日、柳澤伯夫が「女性は産む機械」と言って大騒ぎになった。
「女性は子供を産む能力を備えている」と言わない所に、女性の“人格”を無視する男の考えを感じた。
政治家が言葉を選んで発言しない 、そもそもの考え方が如実に現れている。
今回もそれと同義だろう。根本的な問題はそこだ。
本当の“気の利いたヤジ”とは
以前、TVで池上彰氏が的確な指摘をしていた。
国会の場でヤジを飛ばすのは、場の空気を不快にしたり、まして他人を中傷するためのものではない。
池上先生:
「自分とは違う考えのことを話していても、最後まで話を聞いて、あなたはこういう風に言ったけれど、
実は違うんじゃないでしょうかときちんと反論すれば、国民はその両方を聞いていて、どっちが正しい
かなって判断すれことが本当のやり方だと思いますよ。
(中略)
言っていることにヤジを飛ばすことがあります。ただ、そのヤジがユーモアがあふれていて、聞いている側が思わず笑 ってしまうようなヤジを飛ばすんですね。」小泉先生:
「揚げ足を取るようなことはないんですね 」なんで政治家はヤジを飛ばすのですか? – TBS
http://www.tbs.co.jp/kodomotel/life/20070610_1.html
より抜粋
問題のヤジは上手いことを言ったつもりだろうが、政策ではなく議員個人に対して言っている点でお門違いだ。
女性の社会進出と子育て支援をする理由
議会で話し合われていた内容は「少子化対策」だった。
その場でのこのヤジは本末転倒である。
社会的支援が必要と提言している場で、社会の一員である男性がそれへの理解をしていないと表明しているようなものだ。
そもそも「女性の社会進出」を促した上で、「少子化対策(=子育て支援)」をするというものではなかったか?
その目的は税収を上げる事であろう。
そのために社会の活力を底上げする事が必要ではないのか?
私は 女性を蔑ろにしてはならない理由がそこにあると考えている。
以前書いた日記で、インドの女性差別の原因(カースト制)は、当時の為政者・支配者による被支配者達の活力を削ぐ事が目的であった可能性を指摘した。
つまり女性を差別し抑圧することは、社会の活力を失う事を意味すると私は思う。
男性、社会への問題提起
問題のヤジにしても、根底には「男は仕事、女は家事と子育て」という考えがあるのは言わずもがな。
それが女性の社会進出に否定的な意見の、合理的理由として挙げられている。(女性だけが子育てに向いているというのは事実無根である。片親の親子関係が不安定になりやすい事実を説明できない。)
そもそも男性が仕事一辺倒の社会で良いのだろうか?
社会の「表面的な機能を効率化した」だけでしかない。
そして男性(そしてそれに感化された女性も)が“子育て”を “仕事”と同義にしている点に違和感を覚える。
子育ては人間のコミュニケーションでもないのか?
男性の子育て参加に否定的な意見には、“嫌な仕事の後にまでやってくる「面倒くさいもの」”と考えている気がする。
男性は子育てに自信がないのだろうか?
最近読んだ本、岩月謙司 『女は男のどこを見ているか』で興味深いものがあった。
この本は男性向けの恋愛指南書だ。
今の男性がモテない理由に「“英雄的行為”の不足」を挙げている。
“誰かに助言され救われ(自己肯定)、自身も他人の力になった(他者の自己肯定・成長への手助けをした事による自信)”という経験だそうだ。
“仕事”だけではなかなかそれを得られない。そのために“自己表現をする趣味”が必要であることを、本は示唆していた。
その詳細はこちらでは割愛。
今の世の男性は、仕事一辺倒にすることで「自己肯定」を蔑ろにし、男性的な部分に自信がないために、「役割を演じていない」と勝手な詭弁で女性を貶めて悦に入っているのではないか。
そして「成長への手助け」ひいては子育てに協力する自信が無いという気配がある。
少子化対策への無理解と、セクハラヤジ。これらに象徴される男性の品格が無い原因は、自己肯定ができない、自信の無さが原因のように私は思う。