映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』感想
公式サイト:
http://pina.gaga.ne.jp/
ピナの人生を語るというより、それを語る上で彼女が遺したものを語る映画だった。
生前のピナの映像と、彼女がが率いるヴッパタール舞踊団のメンバーのダンスとインタビューから、彼女が遺していったもの、彼女の踊りの宇宙、哲学を感じる。
舞踊団メンバー個々人の踊りは個性的だが、彼らに共通するのはやはピナが遺したものなのだろう。
まるで澄んだ水の様な映画だった。山奥で見つけた湧き水のような。
随所に水の描写があるためかも知れない。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
『方丈記』
日本人には馴染み深い冒頭を思い出させた。
人は成長し、老いて、死ぬ。その当たり前の流れの中で遺るもの。もしかしたらそれは不変/普遍のものかもしれない。
その連なりに想いを馳せ、それがダンサーの、自身の心の表現に繋がっている。
この映画で気になったのは、やはり“実写主体の映画での3D表現がどのようなものか”だった。
3D映画元年は“飛び出す”表現一辺倒だった。その中でジェーウズ・キャメロン監督『アバター』は奥行きをよく表現していた。CGでの世界観の作り込みの賜物だ。では実写ではどうなるのか?
拝見していて思ったのは、ダンサーの立体感、物質感だった。
やはり“飛び出す”表現の延長なのだが、妙なリアリティを感じさせ、まるで動く彫刻のようでもあった。
“彫刻”と感じてしまったのは、映像のリアリティが舞台を見ているようでありながら、生の熱気や息遣い、何より踊り手が舞っている時の“振動”が当然ながら感じられないために、その違和感を私が解消しようとした結果見たイメージだと思う。
見ていて不思議な気分だった。
インスタレーションなのに、日常の中での芸術の“異物感”を感じさせない。街中、道路の三角州状の場所、モノレールの中で踊るダンサーたち。
走る車やモノレールとも踊りのタイミングが、調和が取れているように思えた。音響も調整してあるとはいえ、喧騒が不協和音とは思わなかった。
見終わった後、澄んだ気持ちにさせてくれる、そんな映画だった。