映画『スター・ウォーズ / 最後のジェダイ』感想

白黒イラスト素材【シルエットAC】
JUGEMテーマ:SF映画 一般

映画『スター・ウォーズ / 最後のジェダイ』チラシ2
公式サイト:
http://starwars.disney.co.jp/movie/lastjedi.html

赤いタイトルデザインから、フォースの暗黒面のニュアンスが色濃くなるのかと思っていた。だが違った。
それは旧三部作の二作目『エピソード5 / 帝国の逆襲』(以下、『エピソード5』)が帝国の勝利とジェダイの試練であったイメージを起因とするものだ。
実際、今回の『エピソード8 / 最後のジェダイ』(以下、『エピソード8』)は『エピソード5』を彷彿させる場面がある。
しかし焼直しではなくリスペクトしている気がした。新しい方向に向かうために……

ジェダイマスター

前作『エピソード7 / フォースの覚醒』(以下、『エピソード7』)クライマックスの目玉か、ルーク再登場。
彼は偏屈なじーさんになっていた!
エピソード6 / ジェダイの帰還(復讐)』にて、落ち着き?のある青年、「ジェダイ・マスター」となっていたようだが……?

だがこれは、賢者(マスター)――静かな威厳を持ち合わせる男性像――のイメージから逸脱しているというわけではない。
厳格さや真面目さだけでは、真の賢者ではないのだ。
真の賢者はユーモアを持ち合わせている。
エピソード4 / 新たなる希望』でルークが出会うオビ・ワンは周囲の人間から「変わり者」と呼ばれ、『エピソード5』で教えを乞うたヨーダは出会った当初“子供っぽいじーさん”として出てくる。
ルークもレイをおちょくるくらいのユーモアを身につけた模様。
そしてカイロ・レンのこともあって、偏屈になったようだ。

東洋の思想――ヨーガ

フォースの考え方はユングの心理学から間接的に東洋思想を基にしていることは、度々指摘されている。禅やそのルーツのひとつであるヨーガの思想も汲んでいるのだろう。
今回の『エピソード8』ではヨーガの思想とイメージを濃厚にしている。
ハリウッドの間でもヨーガが定着した今、それをおざなりにはしないだろう。

ジェダイの知識をしたためてあると思われる本はルークと、結果的にはヨーダの手によって焼きはらわれる。
「多少知識はつくがの」とヨーダが言うように、実践に勝るものは無い。それはヨーガの考えの中にもある。(※1)

ただ、映画終盤で宙に浮くのは……どうなのだろう……(笑)?
100年くらい前のステレオタイプなイメージ(※2)をあえて取り入れるあたり、ジョークなのだろうか?
私はインチキ臭い印象を受けてしまった。

暗黒面と胎内回帰

ユングの心理学における“影(シャドウ)”がすなわち“フォースの暗黒面”と呼ばれるものであろう。
ユング心理学が言う“影”とは「自分が認めたくない自分」であり、それが“劣等コンプレックス”を引き起こす。

エピソード5』で、ルークは洞窟の中でダース・ベーダーの幻影と対峙して斃すも、切り落とした首(ヴェイダー)それが自分自身であるように、レイもまた暗い穴の先で自身の“負の面”――暗黒面と呼ばれるそれは、自身の中にあるコンプレックス――と向き合う。

以前の感想でも思ったが、この物語は抑圧された子供たちの葛藤(試練と克服)が描かれるのだろうか?
そのエピソードは、次作で完結するのか?

家族への想いが諦めきれないレイは“孤独”に遭遇する。だがそれは、彼女自身分かっていながら心の奥底に閉じ込めたものだった。

フィンは置かれた境遇、本人の気質もあると思うが、“クズ”という劣等感を持っている。
でもキャプテン・ファズマとの戦闘ではその“クズ”さを受け入れながら、レジスタンスに貢献しようとする。

癇癪持ちのカイロ・レンのコンプレックスは明確ではない。ただ、私は物語を観ていると、ジェダイを目指していたがルークにライトセイバーを向けられ、「暗黒面に堕ちた」と思い込んでしまったのではなかろうか……?
祖父であるダース・ヴェイダーに憧れるも、本質的には違うので、ダース・ヴェイダーにもそれを越えることもできない。

英雄の否定

古典的英雄譚である『スター・ウォーズ』が、英雄的行為を否定する――かなり踏み込んだストーリーだと思った。
エピソード5』にあった英雄の“敗北という試練”ではない。

少数の腕の立つ人間が命の危険を伴う――場合によっては命と引き換えになる――行為そのものを否定する。

逃走するレジスタンスから追っ手を巻くため、レジスタンスの戦艦に照射しているマーカーを外すためにファーストオーダーの戦艦に乗り込むも、拘束され同伴したハッカーがレジスタンスの作戦内容を漏洩してしまう。
彼らの英雄的行為は完遂されず、それによって窮地に追い込まれ、称賛されるものではなくなる。

別の話と繋がるが、戦艦を囮に貨物船で脱出という作戦に、田中芳樹『銀河英雄伝説』を思い出してしまった……
銀河英雄伝説』では、その作戦が功を奏し、民間人を救う英雄的行為となったのだが……

権力組織の終焉

ジェダイもシスも、その形を変えようとしている――変えざるをえないだろう。
それを時代の流れ、と言い表せるのかも知れない。

シス――帝国は皇帝パルパティーン(ダース・シディアス)を失った後、どの様な経緯を辿ったか私は把握していないが、後進組織のファーストオーダーも最高指導者・スノークを失う。
皇帝パルパティーンはその不気味さや狡猾さで、ダース・ヴェイダーはその存在感――威圧感で充分、他者を屈服させることができたが、私にはスノークはカリスマを“演じて”カリスマになれなかったタイプに見える。
エピソード7』を観ていて、スノークが巨大な立体映像を用いて――矮小な自身を大きく見せることで――カリスマ化を図っている様にしか見えなかった。 既にファーストオーダーも、“オワコン”化していたのではないだろうか?
カリスマを失った巨大組織を、カイロ・レンが率いてゆけるようにはとても思えない……

カリスマ不在は組織の、その権力の終焉を意味する。

私は度々、(特定の個人などに集中し、ヒエラルキー化する)権力の終焉と女性的性質と目される原理が関わりを持っていると考えている。(※3)
映画『スター・ウォーズ / 最後のジェダイ』チラシ1

女性の力の必要性

今回の映画から鑑みるに、凄く重要なキャラクターとしてシナリオが用意されていたことが伺える、レイア(将軍もとい姫)。

ジェダイではない、ジェダイの修行をした訳ではないレイア姫が、フォースの力を用いて生還するのは、ルークが「ジェダイの終わり」を悟っているのと関係があるのだろう。

フォースを使うことに長けた者たちの中で――主に男性たちが――師と弟子という形から、組織だったヒエラルキーのあるものをつくり出した。
それはライトサイド(ジェダイ)、ダークサイド(シス)双方ともに。(ただし、ダークサイド側は師弟関係が複数になると仲間内で殺し合いになるため、常に一組の師と弟子しかいないという。)
私は、それらヒエラルキーに属さない女性がフォースを使うことで、固定化したヒエラルキーを解消させる――“自由”を望む――そんなシナリオを想像していた。

それにしても、レイア姫もといキャリー・フィッシャー女史が亡くなられたのが残念な話で……
レイア姫は映画『ローグ・ワン』のピーター・カッシングのようなフルCGでの再現や、カットシーンからの流用などはしないとの事(※4)。
脚本を変えるのか、『ハリー・ポッター』シリーズのダンブルドア先生や『マトリックス』シリーズのオラクルのように、他の女優さんに代わるのだろうか?

  1. 『スターウォーズ』のヨガ的名言集5選|~マスター・ヨーダ編~ | yoga generation [ヨガジェネレーション]
    https://www.yoga-gene.com/philosophy/211858.html (2018/1/24 確認)
  2. 空中浮揚 > 3 神秘主義・オカルト > 3.1 ヨギと空中浮揚 (Wikipedia)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/空中浮揚#ヨギと空中浮揚 (2018/1/24 確認)
  3. 私は前提として、「権力」というものが“男性的原理”と目されるもの(所有原理、支配欲)であり、それに対を成すように”女性的原理”(関係原理、それは平等、寛容、博愛)が存在すると考えている。これは性別に縛られるものではないが、男は“男性的原理”を、女は“女性的原理”を自然に扱えるのは事実である。現代は様々な要因から、権力というヒエラルキーが終焉を迎えている(流動しやすくなっている)という。それは、現代が“女性的原理”を希求して止まない、そんな時代に突入したからではないだろうか?
    参考文献
    関係する女 所有する男 (講談社現代新書)
    権力の終焉
    女神的リーダーシップ 世界を変えるのは、女性と「女性のように考える」男性である
  4. 遺族発言から一転…『スター・ウォーズ』エピソード9にレイア姫の登場ナシ – シネマトゥデイ
    https://www.cinematoday.jp/news/N0091031 (2018/1/24 確認)
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