映画『うみやまあひだ』感想

白黒イラスト素材【シルエットAC】
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映画『うみやまあひだ』
公式サイト:
http://umiyamaaida.jp/

観終わった後に感謝と畏敬の念を抱く映画だった。
伊勢神宮遷宮とハレの舞台、そして日常の神事と共に、十二人の偉人のインタビューから日本の森と文化を多角的に語る。

写真家故に、どのシーンも構図が安定していて、それがあまりにも自然だった。
伊勢神宮の遷宮は神事であるので、全てを公開・撮影しない。見せない場所は遠景や死角によって隠される。
そのカメラアングル、流れが自然だった。違和感がない。

恒例祭や式の光景。
四季折々の神楽は、季節感に合わせた意匠と周りの風景が美しい。
そうした特別な行事だけでなく、伊勢神宮の日課も描写されていた。

伊勢神宮の日々の神事といっても、何ら特別な事はないように思えた。
それは自然と共に生きている、人の営みだった。
ただ、現代人が使うシステムは一切使わない。
摩擦式(弓錐式)で火をおこし、湧き水を汲みに行く。
直に自然の恩恵に触れ、神と共に生活をしていた。
その神秘さは豊かな自然からやって来る。
生きるために必要な水や糧を維持し浄化する、心理的な作用、森の多様な面を丁寧に映しだしていた。

そうした日常や四季の移り変わりが一年を刻み、二十年になる。
それが連綿と受け継がれ、千年にも及ぶ。
そこに永遠性を見出す。

それらは伊勢神宮に限らない。
東京で身近な明治神宮は百年の計をもって作られた。

何故、二十年に一度の遷宮を続けて来れたのか?
そこからも日本人と森の関係の深さを伺わせる。

宮を造る所から日本の建築、その技術の話に、そこから紐付いて林業の話にもなる。

木曽では木を「伐り倒す」という表現を一切しません。木を「寝かす」という表現をします。

映画『うみやまあひだ』パンフレット
いけだそうじゅ氏インタビューより引用

この言葉に感銘を受けた。
私は「切り倒す」という言葉に罪悪感を覚えていた。 森林伐採による環境破壊のイメージがあるためだろう。
概念的、潜在的なものかも知れないが、その言葉は真理だと思った。
日本の林業の失敗と衰退、
森と漁業の密接な関係、
森を維持する必要性……

いかに現代は刹那的な生活になってしまったかを痛感する。
鉄筋コンクリートは確かに木よりも丈夫だろうが、耐久性は百年持たない事が判明している。
本当は丈夫さではなく、時間やコスト面での施工のしやすさに目を向けていただけだったのだと思う。
そこに森に見るような永遠性、次世代へと更新されながら維持される強さは無かった……

神社は「かみのもり」、神社の周りには鎮守の森が存在し、本来、神社のある山全体がそうだった。
人間への物質的な恩恵もさることながら、森林浴の効果――精神面に働きかけるものも確かにある。
偉人の一人である大橋力氏は、高周波が脳を活性化するという説「ハイパーソニック・エフェクト」を提唱された方だが、伊勢の森にも超高周波を観測したとおっしゃっていた。
私は森林浴の効果の正体がそれだけとは思わないが、それらが人間の内面にも何かを齎すのは間違いない。
最近読んだ本、ウラジーミル・メグレ著『アナスタシア』に書かれた、著者が出会った森の中で暮らす女性が話した叡智に感嘆した。そこで紹介されていたのは人生訓であったり、自然と人間との関わり方の本質であったり、多岐にわたっていた。
その女性との対話に衝撃を受けた著者が記した本なのだが、著者は指摘する。

なぜすべての偉大な思想家――おびただしい数の人々が従う(あるいは従おうとする)宗教的、哲学的教えを説く人物――は、例外なく、その教えを生み出すまで、森の中で陰遁生活をするのか?なぜ彼らは陰遁するのか?しかもなぜ大部分は森の中なのか?

ウラジーミル・メグレ『アナスタシア』 p.294

アナスタシア (響きわたるシベリア杉 シリーズ1)

ブッダは森の中で修行をし、菩提樹の木の下で悟りを開いたという。
人は学ぶ。森の中で。
そういえば、映画『アバター』で衛生パンドラの人々ナヴィがフィーラーと呼ばれる後頭部から尾の様に伸びた長い巻き毛部分の先端を樹と結びつけて生体電流を通して情報交換をしていた。それはこれら森と精神的な結びつきを物質的に視覚化したオマージュだった事を思い出された。

前述、日本人は、と言ったが、これは本来の人間と自然の関係そのものだと思う。

Nature never breaks her ownlaws.
自然は自己の法則を破らない

冒頭でレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉が掲げられ、これが日本の自然信仰の話に留まらない事を感じさせた。
アジア圏と異なり、欧州文化といえば石造りの町並みのイメージがあると思う。
しかし教会に見られるゴシック建築は、石造りだが施された意匠は森を見立てたもので、開拓や異教扱いで失われつつあった森林信仰の名残でもあるという。()そうなると、もはや形骸に過ぎないかも知れないのだが……

人は森の恩恵を賜って生きてきた。
それが見直されている今、私達はそれを正しく頂き活用するサイクルを取り戻すべき時に来ていることを再認識する。

  1.  酒井健『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)』
    ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)
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