映画『アートのお値段』感想
公式サイト:
http://artonedan.com/
ハイソサイエティなライフスタイルというよりは、セレブリティのパーティー気分を味わえる映画だった。
冒頭から盛況なアートバザールの様子が映し出される。色鮮やかなミクストメディアな作品が目につき、多くの人々が交流する姿。
現代美術のお祭り騒ぎの喧騒を移す画面に、クラシック(古典音楽?)が流れる。
展示されている作品は人々に感動を与えている。
その感動とは別次元で、いや感動故に蒐集、投資としての価値……人の欲望が渦巻いていた。
アートの価値(値段?)は
経済の話は避けて通れなくなった。かつてはアートはそうしたものと無縁と思われてきたが(経済的に困窮するアーティストが大半で、今は有名な画家でも生前は貧困に喘ぎ亡くなったイメージのインパクトが大きいためか)。
古典絵画が驚くべき価格となるのは、希少性と収集、集約によって”価値”が生まれるためだ。
それが信用となり、まさにお金になる。
「バブルは壊さないように浮かべておくのが良いんですよ!」
希少性がある――数に限りがある――ということで、価値ある古典作品が出回らず、新たなマーケットを探していたサザビーズは、モダンアートが“商品”――投資対象――になることに注目し、力を入れる。
それはポップ・アートの巨匠・アンディ・ウォーホルの商業的成功という例もあったため。
美術館に展示された古典作品を鑑賞した後、街に繰り出した美術史家は、ジェフ・クーンズの大量生産される巨大アート《ダイアモンド》を前に難色を示す。
投資としてのアートコレクターのインタビューもある。
ステファン・エドリス氏は目利きの持ち主のようだ。予告編でも所有しているコレクションが購入時より高値になっていることを明かす。彼はコレクションを飾っているが、その作品への敬愛よりも淡々とPCで管理している投資家の面が強かった。
投資としてのアートは株のような信用性とはまた異なる。
徳光健治氏が著書で、購入には余剰金を推奨しているところからも、信用としてはブレるものであることが伺える。(※1)
その価値が生まれるのはずっと先であろうし、債券などよりずっと不確かだ。
ダボ付いたお金の投資先として白羽の矢がたったという実情があるだろう。
ステファン・エドリス氏は投資となる価値がある作品を見抜く。
ユダヤ人だという彼が、子供の身体でおじさん顔のヒトラーが膝をついて祈る彫刻?のアートを持っているシュールさ。
…確かにひとつの時代の変容を映した作品なのかもしれない。タブー視せず、ある種笑い飛ばせるような作品だった。
アーティストにお金は入らない?
作品の販売価格が直接アーティストに還元されないケースはほとんどのようだ。
2019年に日本でも回顧展が行われたバスキアは生前全く評価されず、死後、そのセンセーショナル人生とその慟哭を映したような作品で、現在高値で取引されている……
ギャラリスト、オークションの転売によって次第に高値になってゆく。
その時の価格がアーティストの評価になり、彼らの新作がその価格帯になる(その時がアーティストに直接お金が入る唯一の機会なのか?)。
モダンアートの価値とは何か?
それは“今”を写す作品であるかどうか、だった。
未来の人々が過去(“今”)を振り返った時、そのアートが“発明品”であること、後世に評価され、価値が上がるという信用によって成り立っている……要するに投資対象である。それが“アートのお値段”の正体だった。しかし、それは“今”を生きてアートで生計を立てているアーティストたちに還元されているだろうか?(反語)
「アートと金に本質的なつながりは無い」
映画に出てくる人々は、おそらく全員がそのことを共有している。
「美術館に飾られる方がいい」と言うアーティストたち。確かにこれほど名誉なことは無いだろう。
それを「墓場」と言ってのけるサザビーズのオークショニア。
サザビーズのカタログ制作風景から、美術史はどのように生まれるのかを垣間見る。
長い美術史の中で、有名な人気のある作家の隣のページに、その影響を受けた、流れを汲んでいるであろう現代美術の作家の作品を並べている。(著名な作品に“似ていて”価格帯が手が届きやすい若手アーティストの作品にに惹かれて買う人が表れるのを見越して)
それはアートの作風の系譜図を描くような作業だった。
アーティストの声
お金や経済、投資の話は抜きにして、インタビューに答えるアーティストの作品とコメントが沢山聞けることが楽しかった。
ジェフ・クーンズ…巨大バルーンのウサギや犬はインパクトあって面白かったが、大量生産されるうちに私の中で飽きたのか量産されることで邪魔なイメージになってしまった。
ルイ・ヴィトンとのコラボアイテムで、先人の名画の模写に作者の名前が配されているところの何にオリジナリティと今があるのか、私には理解できなかった。(むしろこれはアート?という嫌悪感。)
現代において最も成功したアーティストのひとりなのだが……
ジデカ・アクーニーリ・クロスビーが描く屋内の風景はとてもモダン。
最初、コラージュかと思ったが、部屋の要素を構成する、テクスチャのようになっている雑誌や新聞の切り抜きは描かれたものだった。
アフリカ系アメリカ人のカルチャーに織り込まれた彼女のルーツのイメージを意識させる。
ご本人も美人さん。
マリリン・ミンターのセクシャルな絵画は女性的な作風が私の琴線に触れた。
ピンぼけしたそれは女性の股間、陰毛の部分だった。写真を片手に、彼女はそれを大きなカンヴァスに描き出す。写真ではなく手書き。一見するとそれとわからず、女性的な色彩で描き出された抽象的な絵画のように見える。
あえて取っているであろう、手間のかかる工程。ぼんやりとした輪郭ゆえに注視してしまう作品が女性の股間であることにちょっぴりエロ気恥ずかしさを抱かされる。
ラリー・プーンズ…今はあまり見かけなくなった力強い抽象画だった。1960年代にドットペインティングで注目された後、忘れられた画家だと言う。
彼のボロいアトリエにカメラは何度か足を運び、その制作工程を垣間見る。
その姿は大金と無縁に見えた。(同時に「あの大金はどこへ?」という疑問を突きつける)
時代の変化を敏感に感じ、自覚しながら、自分の作品と真摯に向き合い、創作を模索していた。
映画の中で、ストレートにアートとお金のカラクリについて言及されることは無かったが、その後、いくつかの書籍からその傾向と理由を垣間見る。(参考文献参照)
アートのお値段は投資としてのアート…結局はオークションでその価値が値上がりし、差額は出品者とオークション会社に渡る。
その価格がアーティストの名声になるのだが、オークションで発生した差額がアーティストに渡ることはない。
画廊での転売で、辛うじて還元されることはあるだろうが……
映画の最後に、レオナルドの真筆とされ、史上最高額4億5,030万ドルで落札された《サルバトール・ムンディ》が浮かび上がる。右手に水晶玉(まるで儚いシャボン玉、現世の虚しさのようにも見える)、を持ち、左手で祝福の印を掲げるその姿に、この映画を絡ませると皮肉にも受け取れる。
- アートとお金のはなし | アート情報
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