ダークナイト
『ダークナイト』見ました。
映画公開時も良作と評価 の声を多く聞きましたが、本当に良い映画でした。
映画史に残る作品ではないかと思います。
前作『バットマンビギンズ』もただ旧作のリメイクに留まらないものでした。娯楽としてだけでは無く、リアリズムと“正義を行使するという事”に対する問題定義、犯罪を暴き、裁く手段にある苦悩など、情報が多く盛り込まれ、心理描写も良かった。
その続編にあたる『ダークナイト』前作とその問題定義は変わらない。
旧作でもインパクトがあった敵役“ジョーカー”が現れる。やはり注目すべきは彼の存在。
旧作を凌ぐ悪意、絶対悪と言って良いキャラクターでした。
協力者を誰一人として信じていない。
“恐怖”によって相手を服従させる。
それほどの悪意は一体何処から来るのか――?
口が避けている理由を、ストーリーテラーよろしく語りますが、幼児期の虐待を仄めかすその内容は、大まかな筋は変わらないものの、相手によってデティールが異なる。
“嘘っぽく”聞こえる。
彼は自身の悪意を、両親や社会のせいにはしていないように思えます。
この役をこなした、ヒース・レジャー氏。亡くなられたのが惜しまれます。
この“ジョーカー”の存在は言うまでもなく脅威ですが、更に恐ろしいのは、市民。
義憤、命の危機から、貧しさから、そして犯罪への憎悪さえも新たな犯罪を招く。
それは情報に踊らされる大衆であり、人間の姿。
ただバットマンが“闇”の部分から手を回すだけでなく、少数ながら表舞台“光”の側からバットマンを支える協力者も現れる。
バットマンは彼らを正義を正面から行使する“光の騎士”として、協力し見守るスタンスをとるものの、彼が望みをかけた人物は、愛する人の死と共に、復讐鬼と化してしまう。
顔の半分が黒く焼け焦げたその姿は、光の騎士の面、両面が同じコインに象徴された不変の失われた姿か、正義を行使せんとする人間が抱える闇か、死の暗示か。
無実の罪を背負いながら、街を見守る姿勢は、正にヒーロー。
やはりヒーローは孤独になる。真実を覆い隠して。
それでも希望はある。
ジョーカーの“実験”に巻き込まれ、民間人と囚人が互いに相手を殺さねば助からない状況に陥った時、騒然となるものの、互いに起爆装置を押さず、自身の死を覚悟した。
それは正に奇跡というもの。
自身が助かるために相手の命を殺せるか、罪を犯せるか。
この場合、『カルネアデスの舟板』のような状況。
参考:カルネアデスの板(ウィキペディア)
それでも彼らは互いにそうしなかった。自己犠牲や相手を信じる美しさがちゃんと示されている。
そんな事に感嘆した。
思い出されるのは、“「真理」にかけられたヴェールを剥がす「時」”の寓意画。
その絵画の作者がわからなく、調べがつかなかったので、似た絵画を…
ここに載せた絵画は、ブロンズィーノ《「愛」の勝利の寓意》の上部ですが、「時」の擬人像である翼を生やした老人が、「真理」の擬人像にかけられたヴェールを取る、「真理」が隠された真実が明るみになることを表している。
もっとも、この《「愛」の勝利の寓意》は特殊なので、この解釈からズレがありますが。
時が経てばいずれ、それはあくまでも希望。
良い映画でした。
人間の、正義の核心に迫る描写が、それを疑似体験できるストーリー構成が、素晴らしい映画でした。