映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』感想
公式サイト:
http://starwars.disney.co.jp/
当初、監督がジョージ・ルーカスではなくなることやルーカス・フィルムがディズニーに買収された事で、不安を感じていた(特に、硬派な印象が無くなることや設定が覆されること)が、普通に面白い映画だった!!
J.J.エイブラムス、侮ってた……ごめんなさい。
スミマセーン⊂(゚□゚*⊂⌒`つ≡≡≡
若干のネタバレあり
冒頭でトルーパーに身長差がある事に感動してしまった。
旧三部作(エピソード4~6)では、俳優が演じていたので身長差がどうしてもあった……それを彷彿させ、旧三部作からの時間軸の延長上にある印象を受けてしまう。
元々、トルーパー達はクローン兵士なので、新三部作(エピソード1~3)のようにCGコピーでも良かったのかも知れない。
ただ、それでは物質感が無いというか、新三部作を観ていてリアリティーに欠ける気がしていた。原点回帰したようで、惹きこまれる。
そう思って見ていると、トルーパーの中に入っているのは、クローン人間ではなかった!
物語の30年という時間の中で一体何が起こったのか、想像力を掻き立てられる。
以下、文章にまとまらなかった事を箇条書き。
- ミレニアム・ファルコン号が飛行するだけでも感無量。
- ハン・ソロが銃を使っているシーンを見て、「そうか、彼は西部劇のガンマン(流浪の賞金稼ぎだし、運び屋だし)がモデルだったのか!」と今更ながら合点する。
- バーのシーンで、CGを駆使した人種だけでなく、特殊メイクっぽい人種がいる事で、旧三部作っぽい物質感があって嬉しい。
- 実際、所々のアイテムや人種が旧三部作を意識させてくれる!遠景に見える朽ちた戦艦・スター・デストロイヤー、アクバー提督やニエン・ナンと同じ人種が!(本人?)
- スクリーン越しに見るハン・ソロ(ハリソン・フォード)とレイア姫(キャリー・フィッシャー)に、感慨深いものがある……年取ったな、と。でも久しぶりにスクリーンで見れて嬉しい。
- レイのフォースの使い方、間違ってない?
- 往年のスター・ウォーズのテーマ以外、あまり惹かれる曲が無かった……曲全体がマイルドな印象を受けた。
デザイン
トルーパーのスーツデザインが凹凸が少なめ、白と黒の配置はだいたい同じでフラットデザインになったことはモダンスタイルだと思う。
堅牢で威圧的な建築物と垂れ下がる赤い幕はファシズムを彷彿させた。もうちょっと言ってしまえば冷戦時代の共産主義政権の大国なども……
帝国vs反乱同盟軍(共和政)という図式は、欧州、ローマの歴史観から着想されているのだから、近現代史を踏まえるのもさもありなんだと思う。
デザインというもの、特にロゴマークなどは、時代や思想を象徴するものなので、どんな意図を込めて制作されたのか考えてしまう。
あのロゴマークの意味は何を象徴しているのだろうか……
平たく考えると、デス・スターなどの主砲を意匠化したものの様に思える。
破壊的な意匠なのだろう。
親が不在の子ども達
今回のストーリーで一番気になるのは、次世代を担う3人が一様に“抑圧された子ども達”であること。
主人公・レイは家族の帰りを待ち続ける少女。
彼女と行動を共にする脱走兵・フィンは“ファースト・オーダー”に家族を殺され、捕虜となった後“再教育”されトルーパーになった少年。
カイロ・レンが“ダース・ベイダーの意志を継ぐ者”フォースの暗黒卿のようだが、彼はフォースの光の面にも強く惹かれている――
これらキャラクター設定に、日本では1990年代に取り上げられた、アダルトチルドレンの傾向を見てしまう。
レイは気丈に過酷な日々を過ごす小公女のようだが、フラッシュバックする過去の映像に親の愛情に飢えている印象がある。
フィンが語る経験から、トラウマを持っている事は察しがつく。その後、生きるために、そしてその恐怖から逃げるためにトルーパーに成らざるを得なかったことも。
カイロ・レンは部下のBB-Q追跡の失敗報告や捕虜の脱走に気付くと、ライトセーバーを振り回し周りのものを破壊している。幼稚な癇癪だ。そして周りの者にも手がつけられない。
ダース・ベイダーもそうした節があったが……ダース・ベイダーには恐怖政治的、見せしめとしての動機が強い印象だった。それとは異なる気がする。
親の不在(親から無償の愛が無い)と、こう有りたいと思う本来の自分との解離――その抑圧された感情が、物語の冒頭から彼らの行動原理の出発点になっている。
旧三部作の主人公であるルーク・スカイウォーカーが、親代わりの叔父や叔母に愛情を注がれて育てられていた事とは異なる。
エピソード4では叔父・叔母を惨殺されるという悲劇的な経験から、否応なく過酷な世界に引っ張りだされるが、良き師であるオビ・ワン・ケノービに出会い導かれることで、困難を乗り越え英雄的行為をする。
他方、今作の主人公たちはそうした良き師、すなわち行動を共にし規範となる導き手が現れない。途中で行動を共にするハン・ソロはその役割を担えそうでありながら、そうならない。
この物語は、抑圧された感情を克服する物語ではないだろうか――?
そのためも主人公たちは“良き師”に出会わなければならない。
神話と心理学
『スター・ウォーズ』が古典的な英雄譚を最新技術(VFX)で表現したものであることは、多くの人が指摘している。
エピソード1~6の監督であるジョージ・ルーカスは、大学で神話学者ジョーゼフ・キャンベルの講義に感銘を受け、(※1)構想を練ったという。
キャンベルの著作に、『スター・ウォーズ』を読み解く要素がある。その本は先日、早川書房から文庫版が出ていた。
主人公が安全な日常生活から外へ出て(旅立ち)、強大な敵などに遭遇する苦難を乗り越え(通過儀礼)、故郷に帰る(帰還)という一連の流れは、神話や童話、あらゆる冒険譚に必ずと言っていいほど出てくる。
それらのうち誰がそのオリジナルであったかは問題ではない。その一連の流れが、国を変え、姿を変えて現れる事が重要(※2)なのだ。
あらゆる国、あらゆる地域、あらゆる世代を超えてこの体験が共有され、それが人々に大きな影響を与えている。
この神話の体系に、人間の心の成長を見出したのは、心理学者達だろう。
もはや古典心理学でもあろう、フロイトやユングは、自身の心理学体系を神話をモティーフに表現した。
今年読んだ本、ウィリアム・インディック『脚本を書くために知っておきたい心理学』では、まるで教科書のように『スター・ウォーズ』の旧三部作が引き合いに出されていた。それだけ要点をまとめた作品なのだろう。
だが新三部作(エピソード1~3)の展開に私は納得出来ないのだが……
アナキン・スカイウォーカーが葛藤を経ず暗黒卿になってしまう様で、暗黒面に堕ちる動機がそれで良いのか疑問を持ってしまう。
母の死が絶望となり、パドメの死の予知を聞かされそうさせまいとするのは分かるが、他力本願(フォースの暗黒面に縋る)すぎてがっかりしたのを覚えている。
ギリシャ三大悲劇『オイディプス王』のように、不吉な預言に抗ったが不本意ながら成就してしまう物語にすら、成りきれていない。
ここからは私の勝手な想像に過ぎないのだが……
今作から始まる『スター・ウォーズ』新章にはアドラーの「劣等コンプレックス」の克服と「ライフタスク」を正常に機能させる努力を元にしたストーリーが展開するのではないかと想像している。
東洋の思想
新章の主人公たちのトラウマやコンプレックスの克服に必要な要素として、東洋の思想の役割が大きくなるのではないだろうか。
元々『スター・ウォーズ』に東洋の思想を垣間見るものが多々ある。
旧三部作のライトセーバーでの戦闘は剣道のよう、フォースの力を発揮して敵兵を吹き飛ばすシーンは気功を思い出させ、ヨーダが語るフォースの話はヨーガや禅の思想に通じるものがある。
実際、映画公開前後には東洋の思想と『スター・ウォーズ』を絡めた書籍が何冊が出版されている。
自身を見つめ直すきっかけとして、欧米でもヨーガや禅に触れる事が多くなったようだ。
先駆者といえばビートルズのヨーガ体験、スティーブ・ジョブズも禅に触れている。(※3)洋の東西で、互いの思想で行き詰った部分を補い合おうとしているような気がする。
世界とありのままの自分への調和を取り戻そうとするヨーガや禅の思想を、『スター・ウォーズ』の中でそれと気づかせず表現した時、物語の登場人物だけでなく、それを鑑賞する生きづらさを抱えた人々に、生きる活力を、再生を促すきっかけになる描写となるのではないだろうか。そんな期待を持っている。
そんな事を抜きに、娯楽作品として続きが楽しみでもある。
- 松岡正剛『704夜『千の顔をもつ英雄』ジョセフ・キャンベル|松岡正剛の千夜千冊』http://1000ya.isis.ne.jp/0704.html(2015/12/24確認)
R.B『神話学Ⅰ~スターウォーズ~』http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-6/(2015/12/24確認) - 『ホビット』『指輪物語』の著者であるJ.R.R.トールキンは著書『妖精物語の国へ』の中で、神話と童話に優劣が無いこと、その通過儀礼の経験を物語を聞いたり読んだりする者が共感(擬似体験)する事で、深い喜びを味わう事を指摘している。
- うちこ『ビートルズとヨガ』http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20130312(2015/12/24確認)
肥田美佐子『スティーブ・ジョブズと禅』
http://president.jp/articles/9094(2015/12/24確認) PRESIDENT 2011年12月5日号