抑圧されるシャクティ――インドの女性差別の原因と女性解放運動から思うこと
私がインドの神話に関する本アラン・ダニエルー『シヴァとディオニュソス』を読んでいた時、インドで女性への暴行事件とそれへの抗議デモが起こった。
それらの報道を見て、大きな矛盾を感じた。
インドには女神信仰や男女性の違いを肯定をする思想があるのに、こうした性犯罪が昔から絶えない事だ。
インドで女性暴行事件が起こる度、一因として日本で報道されるのが「カースト制における女性の地位の低さ」と「貧富の差によるはけ口として女性が被害に遭う」というものだ。
なぜ女神信仰のある国で「カースト制」では女性の地位が低く、それを口実?に犯罪が起きてしまうか疑問であった。
読んでいる本が本だったのでインド文化の集大成、歴史の片鱗でもある神話にもその理由が垣間見られるのではないかと考えていた。
以下は私が調べた限りでの、神話に見る文化史からカースト制のインドの女性蔑視の原因についての備忘録。
インドの女性観
インドにおいて女性の地位はどんなものか?
ネットで調べた所、興味深いコメントを拝見した。
ヒンドゥー社会では女性への視点に中間が欠落していて、上か下か、という両極端が非常に強いと言えます。ヒンドゥーで信じられるところの「女性性」が発揮されれば崇められ、そうでなければ冷遇されるわけです。
このことはヒンドゥーの神話にも反映されているように思えます。
インドの神話ではことのほか女神の存在が大きく、静的な男神に対して女神の活躍ぶりが目立ちます。インド各地でカーリーやデヴィ、ドゥルガーなど沢山の女神が信仰されますが、創造をおこなうと同時に圧倒的な力で破壊と死をもたらすというのがおよその共通点でしょう。美と温和の面を持ちつつ、ある時にはプラス、マイナス両方向に圧倒的なエネルギーを放出すると受けとめられているのです。その本質は「シャクティ」すなわち「(女性の)力」とされています。女性である神の力によって男性神が活性化される、世界の根本に女性の力がある、という風に認識しているのが神話に見るヒンドゥーの特徴です。
参考:Shakti(Wikipedeia/英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Shakti
『シヴァとディオニュソス』の第十一章では、古代インド社会(原初のシヴァ教)は母系社会だったことを指摘している。
‘世界の根本に女性の力がある’という上記コメントからも、古代インドが地母神信仰だけでなく社会が母系社会だった事が伺えるのではないだろうか。
では何故、中間の視点が欠落してしまったのだろうか?
それはやはりカースト制の成立に起因しているように思えてはならない。
成立の過程で何が起こったのか?
インドのカースト制の論拠となる「マヌ法典」には、女性というものを抑圧するように明記されている。
下記『立ち上がる女性たち』には一部を抜粋してある。
http://www.jca.apc.org/unicefclub/research/97_india/index.html
『マヌ法典』(紀元前2世紀~紀元後2世紀頃成立)はヒンドゥー教の聖典だが、その前身には、インドの先住民族トラヴィタ人ではなく遊牧民族アーリア人の「バラモン教」の影響があるという。
参考:『ヒンドゥー教の起こりと開祖』
http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/index.files/tenyou-ki.files/okori-hindu.htm
そしてバラモン教は‘紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程で形作られ’、‘紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始ま‘ったという。
参考:バラモン教(Wikipedia/日本語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
定住農耕社会では、財産はふつう女性に属し、母から娘に相続させる。(中略)これにたいし、遊牧民社会では、男性が優位に立ち、女性は売買の対象とされる。アーリア人の侵略から生まれた主な社会問題は、遊牧民社会の父系制システムを維持しながら定住社会になったという点にあると言えるだろう。
『シヴァとディオニュソス』 第十一章 生活と社会 p.393
インドの原住民族であるドラヴィダ人(定住農耕社会)の社会が受けた、アーリア人(遊牧民社会)侵入によって、男性に主権がある制度(カースト制)が確立されていったらしい。
抑圧される女の力
母系社会(女性原理)から男性原理の社会(階級制による支配、ヒエラルキー社会)への転換が女性蔑視を生んだようだ。
男性原理とは“所有原理”でもあり、新興勢力(男性原理)が既存の体制(女性原理)を支配するにあたり女性原理を抑圧した、という想像はたやすい。
だが、支配するのにどうして女性そのものを卑下しなければならなかったのか?
それは‘ヒンドゥー教では女性は潜在的に危険な力を有すると信じられており’それを管理するのが男性の役目である、という考えがあるためのようだ。
http://www.indjpn.com/asiaxsoc5.html
では女性が潜在的に有する‘危険な力’とは何を指し、なぜ恐れたのか?
それにつながりそうな、性に関しての興味深い本を読んだ。
夏目祭子『知られざる最強の創造エネルギー なぜ性の真実『セクシャルパワー』は封印され続けるのか』
この本では性交を男女のエネルギーの循環とし、その循環は無限大(∞)のように男女共に高めあうものであると説いている。
それが人間の力の源でもある、と。
しかし、男性原理を取り入れた社会や宗教がヒエラルキーによる支配制度の確立のために、性を抑圧する事で支配される人間の力を削ぎ、それを成し遂げたという見解だった。
この“性のエネルギー”、女性のものが「シャクティ」であり、‘危険な力’を指すのだと思う。
古代の人々は感覚的・概念的に性のエネルギーを知っていて、性のエネルギーで支配される人間が力を持たれては、反乱が起こりヒエラルキーが揺らいでしまうと考えた。
そのため、女性を所有物とし蔑視するように仕向ける事で、男性の所有原理を満足させつつ力を削ぐ事を可能にした、が真相ではなかろうか?
為政者がヒエラルキーを構成する人間の力を削ぐ目的で、性のエネルギーを抑圧するために女性を悪しきものと扱ったという解釈は、説得力があった。
カースト制成立時の女性蔑視にはこの考えがあったのではないだろうか。
マヌ法典しかり、文明が成立してからの宗教の中で、最初の女である聖書のエヴァやギリシア神話のパンドラも、誘惑と罪を招く存在として描かれているのだから。
それとは別に、このカースト制がインド社会を築いた優れた社会システムとして受け入れられてしまった理由を考える。
これは私の想像に過ぎないが、男性原理的と目される“合理的”であるが故に、機能的な社会を運営・維持する制度として認識された事が一因にあったのではないだろうか……?
バラモン(司祭、僧侶)、クシャトリア(王侯貴族、軍人、戦士)、ヴァイシャ(一般市民、商人、農民)、シュードラ(奴隷)、そしてダリット(不可触民)という名称からは、ヒエラルキーというより古代からの役割(職業別と言って良いだろうか?)区分が基準になっている。
それをカモフラージュに、上下関係を設けたように思える。
アラン・ダニエル―は著書の中で、カースト制を“合理的な役割分担”と見なし、肯定的に捉えいたフシがある。社会の需要と供給が保たれる合理的な社会構造だと……
だが、アラン・ダニエル―に言いたい。役割分担であるなら、それが必然的にヒエラルキー化したとしても、それが偏見と差別、搾取に繋がってはならないと言って欲しかった。
アラン・ダニエル―がどう思っていたのか、私は知る由もないが。
インドの女性解放運動
現在の問題に話を戻そう。
インドでは事件がある度に女性だけ行動を制限する事で安全を図った事にしていた。
言わずもがな、女性の行動をルールで縛っても女性の安全は守れない。
『ルールで縛ってもインド女性の安全は守れない』 By TRIPTI LAHIRI
http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324774204578214643280675364.html
上記でも女性の自由な外出を訴えている。
勉強や仕事などで自宅の外で活動する女性の数が増えるにつれて、女性が女性専用車両にはあふれて他の車両に乗ることになるだろう。そして、女性の数が明らかに多くなれば、女性に対する暴行は減るだろう。
この事件により、インドでも女性解放運動の声がより高まっている。女性たちの抗議デモが、連日報道されていた。
インド女性解放運動は、イギリス植民地支配時代に西洋思想の影響を受けた、主に都市に住む教育を受けた女性たちによって担われた。
ジェンダー理論は西欧から起こったが、背景には大戦により戦場に行った男性に代わって女性が社会進出をした事がきっかけだった。
女性の社会進出が進み社会に良い影響が出れば、カースト制の女性蔑視を変える事が出来るのだろうか?
男女同権とは社会的権利は等しいという事だが、その上で女も男も、互いの性質の“違い”を本当に理解できているのだろうか?
私には男女同権が、未だ男性の尺度で女性の性質を計っているようにしか思えない。これはインドに限らず、日本でもだ。
上記で挙げた理由で考えると、女性を抑圧するということは、巡り巡って人間の力を疲弊させてしまうという事ではあるまいか?
話が飛躍してしまうが、社会に活力が不足するのは、これも原因ではないだろうか?
だからこそ、シャクティを根源とした女性の力は、ちゃんと発揮されれば社会全体の底上げが可能であるはずだと私は思う。
- インドの原住民族は諸説あるが、便宜上ドラヴィダ人とした。インドの原初の宗教には特定の名称がないようだが、アラン・ダニエルーに倣い“シヴァ教”とした。