映画『ピクセル』感想

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映画『ピクセル(pixel)』
公式サイト:
http://pixels-movie.com
http://www.pixel-movie.jp

予告編のトンデモ設定と、ドットもとい3D化したピクセルで物質感を得たパックマンが街で大暴れしている様に、気になって仕方なかった。 また、監督が『グレムリン』『ハリー・ポッター』シリーズ(賢者の石からアズカバンの囚人まで)『ナイト ミュージアム』のクリス・コロンバス氏だったので、コメディに良い味を出しているであろう事、映画『シュガーラッシュ』にも通じるものがありそうなので、直ぐ観に行った。

undefined若干のネタバレありundefined

映画『シュガー・ラッシュ』以来の、会社の垣根を越えたゲームキャラクター達のカメオ出演が楽しい。配給がソニーなのに、任天堂のキャラクターが大暴れ。
そんな事を考えながら見ていると、ちゃっかりプレイステーションが作中に出てくる。
そして物語の重要なキーマンとして、映画『シュガーラッシュ』と同じくQバードが出てくるところに、Qバードがアメリカのゲーム世界で人気なのだろうと思った。

勿論、ツッコミ所も満載なのだが……

ゲーム画面を見て、戦争を仕掛けられたと勘違いしたという宇宙人。だが、そのルールに則り攻撃を仕掛けてくる。
イカサマに対してチャンスまでくれたり、戦利品として回収される人間は要するに人質で、ルールに則って攻略すると還してくれた……
真面目に考えてしまえば、建物を壊してくれたりしているので、描写されないだけで(倒壊した建物の下敷きになったとかで)被害甚大であろうが……
根はやさしい宇宙人だったのかもしれない。

一番面白いと思ったのは、言葉の端々に散らされた掛詞によるユーモア。
ゲームのタイトルや韻を踏んだやり取りが面白い。
さり気なく映画のタイトルなどを踏まえての揶揄も入っていて、それに因んだ俳優が出演していたり……
ハリー・ポッター』と『ロード・オブ・ザ・リング』を引き合いに出したと思ったら、何気にショーン・ビーン出てる。
そういえば『ゴーストバスターズ』に出ていたダン・エイクロイドもいた。脇役に凄い俳優陣がでている。

興味深かったのは、世代間での「ゲーム」への関わり方の違いだった。
ピクセルという限られた表現が生むキャラクターとルールの数学的なパターンを直感的に理解し、ルールの中で攻略する主人公と、
リアリティーを追求したヴァーチャルな世界で「兵士になりきる」のだという少年の対比。
ジェネレーションギャップというか、時代とともにゲームが何に価値を置いたかを垣間見る。
表現の自由度が上がった、家庭用ゲーム機。
最近のものは最早映画並の映像美とリアリティで、より“なりきれる”ようになった。
(実際、映画タイトルと同じゲームも同時発売されるようになった。それは凄い映像を作るに伴う制作費を、多媒体を通して回収する狙いもありそうだが……)

ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』では、日本のサブカルチャーに接する子供達とクリエイター達の価値観の時代毎の変容を分析した本だったが、その内容を踏まえて考えると面白かった。

ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)

上記本では、マスメディアの発達により大人と子供の情報量格差が無くなったことと、善悪二元論の矛盾とそれ故に多様になるスタイルの変容を指摘している。
教訓や成長譚からアイデンティティの話へとシフトしていったことも。
「アニメ・ゲームは子供のもの」と思われていた事が一般的だった頃でさえ、結局クリエイターは大人であったこと、そして圧倒的に男性が多かったことから、そうした描写が多くなることは必然だったのかも知れない。

ゲームをプレイするという事が、将棋やチェス等のテーブルゲームから“演ずる”事が可能となった時、演劇や映画を鑑賞する時に感じる疑似体験が、より自主性を伴って疑似体験できる表現手段となった。
得られるものを等しくしている以上、映画とゲームの親和性は元々高かったのだろう。

RPGの原点、そのルーツとも言うべきテーブルトーク・ロールプレイングゲームが、『指輪物語』などの剣と魔法の物語や神話の英雄譚を基にしたものであるのは、それらから得る疑似体験が古来から人間(特に男性)の精神的な成長を促す要素だったからだ。

男性の成長は「他者に救われ(受け入れられ)、同じように自分も他者を救う」事によって成されるという。

だからこそ、映画『ピクセル』でも主人公が英雄になるため、誰かを救う前に少年によって過去のトラウマを解消されることで自信を持って、はじめて成就する。

人質にとられた人間に女性がいないことも興味深かった。

ウィリアム・インディック『脚本を書くために知っておきたい心理学』では、(20世紀まで?)映画の中でヒロインという存在が“囚われの乙女”というポジション、男性にとって困難を乗り越えた後に得られるトロフィー的なニュアンスであることを指摘していた。

脚本を書くために知っておきたい心理学

“囚われの乙女”は神話内の英雄譚でも男性が成長を促す動機付けの定番だが、それが男尊女卑の観点から強調されたのは言うまでもない。現代の女性に、この主題を下手な描き方ですれば、女性差別と取られるだろう。
女性は男性よりも体力的に非力かも知れないが、無力ではない事は多くの人が知っている。
いるのは“戦う女性たち”だ。キャリアウーマンとして、母として戦う中佐や、ゲームのキャラクターの女性など。

「女性の社会進出」は、それまで男性にしか出来ないと思われていた事に性別による優劣が無いという事実を明確にした。それまで男性ばかりだった地位に女性が就けるようになって。
だがそれはまだ女性が男性的役割を演じている所から脱していない様に、この映画でも思われる。
より女性が女性性を発揮した力で社会に貢献する描写は、まだ現実社会にもモデルケースがないことに悶々としてしまう。


色々考えてしまったが総括すると、映画『シュガー・ラッシュ』のようなゲーム云々を楽しむ映画ではなく、80年代への懐古趣味的な様相が強い映画だった。
アーケードが社交場としてのニュアンスが強かったかどうかは、私にはわからない。ただ、その場で対面でのコミュニケーションツールとしては成立していたと想像する。そこに人が集う限り。

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