映画『Mama』感想
納涼企画というホラー映画強化週間……
これ、日本で公開してくれないかしら……
公式サイト:
http://www.mamamovie.com/
大好きなギレルモ・デル・トロ氏が、製作総指揮(executive producer)を務めている。
映画『パシフィック・リム』の公開もあるので、したためておく。
因みにこれはアンドレス・ムシェッティ監督のショートムービーのリメイクだそうだ。
あらすじ
仕事上の金銭トラブルから精神的に行き詰まり、妻を殺し幼い子供二人を道連れにすべく飛び出して以来行方不明になった兄・ジェフリーを探し続けて5年が経ったある日、弟・ルーカスの元に二人の姪・ビクトリアとリリーが生きて発見されたと知らせが入る。
彼女らは5年もの間森の中に置き去りにされていたが、本当に二人っきりだったのだろうか?
使われなくなった猟師小屋の脇に置かれた狼の像などから、すぐに『アマラとカマラ』の物語が連想される。
精神科医のカウンセリングを受けている描写があるのも、『アマラとカマラ』が自閉症あるいは精神障害の孤児だったと考えられている事を踏まえているためだろう。
参考:アマラとカマラ(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アマラとカマラ
両親の死や5年にも及ぶ人間社会からの隔離から、精神科医・ジェラルド博士は臨床的な関心からビクトリアとリリーのカウンセリングを請負う。
ジェラルド博士は、彼女たちが口にする"Mama"という言葉に、過酷な環境を生き抜くためにビクトリアが解離性同一性障害になり、想像の「母」を生み出したのではないかと懸念するが、"Mama"の正体は亡霊であった。
女と母
ギレルモ氏が関わる映画には母娘の関係、母の愛と女性(と子供)の霊性に関わるものが多い。
それらを見ていると、母性というものは本能ではなく、もっと感情に依るものが強いのではないだろうか。
この物語でもまた、母と女のイメージが強い。
映画『ダーク・フェアリー』の登場人物・キムと同ような立場(恋人の連れ子との関係に悩む)だが、その思考は異なるものだ。キムの場合は「恋人との今後の関係も踏まえ家族として仲良くなれるか」を心配していたが、『mama』のアナベルには当初「自分には何の関係も無いのに突如現れた社会的責任」である。
しかしアナベルがビクトリアとリリーを邪険に扱うありがちな継母子の展開にはならなかった。
アナベルは(当初無関心であったためか)関係を無理矢理に介入せず、強要もしなかった。だが、不思議と自然に母親となってゆく。
それは夢の中で"mama"の過去を垣間見、共感したことが理由だったのかもしれない。
そして肝心要の所でアナベルはビクトリアとリリーに向き合う。
言い淀むビクトリアの話を聞くために服の紐を掴む描写は人間関係の繋がりを暗示させ、暴れるリリーを抱きしめ体温を温めつつあやしている姿は母親のようだった。
無力な父性
上記の描写に対して男性の存在は希薄だ。異界に母子が関わり、隔絶され現実に残る父親(義父や叔父)。
彼らはクリストフ・ガンズ監督の『サイレント・ヒル』で行動力があり物語の側面を担う父親/夫のようにはなれない。(『サイレント・ヒル』ではショーン・ビーン演じる父親/夫のクリストファーは異界(作中の表現では[灰と霧に包まれた世界]と[血と錆に覆われた世界]の「裏世界」)に行かずとも、現実世界の方面から過去の事件を探ってゆく。)
それは異界というものが母性原理(「包み込む」事。主体と客体、善悪、上下などを1つの対比をして捉える。肯定的には生み育てるものであるが、否定的には飲み込み死に至らしめるものである。)に寄るためだろうか。
現実世界、特に社会は父性原理(「切断する」事。主体と客体、善悪、上下などに分類する。)に寄るもので、その分断を持って異界に関わる事は出来ない。父性原理の尺度で測る事は出来ないからだ。
子供
もう一つ興味深いのは“子供が選択する”事だった。
ビクトリアは叔父とアナベルを、リリーは"Mama"を選んだ。
元々、子供は親を選べない。裁判所で親権を争う描写があったが、それは象徴的だ。
アメリカは離婚率が高いようで、映画もその問題で親権を争う描写が多い。そこで描かれるものは興味深い。
何故なら裁判所に子供の発言は無いからだ。親と大人だけが理論的に語る場でしない。
そのため終盤の子供の短い言葉と行動に重みがあり、大人たちの議論など無意味なものに思えてくるのだ。
ギレルモ氏らしい描写は多いが、少し娯楽色が強いように感じた。
アンドレス・ムシェッティ監督の意向だろうか?機会があればショートムービーを観てみたい。
前半部分の登場人物の死角、硝子の映り込み、影などで表される漠然とした存在から、後半部分では"Mama"の姿はしっかりと形を持って対峙する。
昔からのハリウッドホラー映画の王道だ。
“Mama"の姿は女であることを象徴するものは乱れた髪だけだった。病的に痩せた腕は老木を思わせた。
その木のイメージは更に"Mama"に纏わる悲しい事件に関連する。
その上で、今までとは異なる表現があった。"Mama"に纏わる過去の事件や、物語の後半部分が"Mama"の視点で描写される。
CG加工され、非現実的な視界はゲームのFPS(First Person Shooter/一人称視点)のようだった。
一人称視点、すなわち主観となる事で"Mama"との共感と、"Mama"に追われる少女達の恐怖を客観的に表現したのかも知れないが……
私には主観と客観、反する視点が同じ表現という矛盾が気になった。
異界のもの ――精神病、死後諸々
矛盾というなら、何故リリーは四つん這いだったのか……森の中とはいえ歩きにくいだろうと思ってしまう。
などと言いつつも、これはあくまで『アマラとカマラ』へのオマージュであり、その動きは人間とは違う異形なものとしての対比を象徴させていると思った。(『ダーク・フェアリー』に現れるトゥース・フェアリーとの関連が否めない。)
ビクトリアとは違いリリーは1人だけ蛾を食べている。蛾(そして蝶)は洋の東西を問わず死者の魂を運ぶ或いは魂の化身であり、作中では特に"Mama"を象徴するものの1つだ。
それを口にするという事は冥界でザクロを食べてしまったペルセポネー、黄泉戸契(ヨモツヘグリ)だ。(現実的な事を言えば、昆虫は森で遭難した際に貴重なタンパク源になるので過去の習慣とも取れる。)
それを口にしているためリリーは"Mama"に近い存在であり、あのラストは必然だった。
もう少し、現実的な視点を絡めるなら、リリーは姉のヴィクトリアとは違い、実の父母の記憶が皆無だと思われる。
リリーはどうしても、生きた人間の、親のぬくもりを知らないのだ。
ヴィクトリアは母親の代わりではなかったのだし、リリーにとっての母親はやはり、亡霊の"Mama"だった。
リリーが人に触れられる事に抵抗があるのは、そういった面もあるという布石かも知れない。(人間的なぬくもりの拒絶もまた、『アマラとカマラ』のオマージュ的な要素であるが)
それでも前述の通り、リリーはアナベルのぬくもりを受けた時に抵抗を止めた。これは生きた人間のぬくもり、現世との繋がりを意識させるものでもあるが故に、リリーが現世に留める可能性を秘めながら、そうならない悲劇を強くさせる。
リリーと"Mama"は互いに魂を昇華され天に上っていった。
どうでも良い蛇足:
この"Mama"の顔、伊藤潤二『ファッション・モデル』に出てくるモデルの淵さんの顔にそっくりだ……