納涼企画 ~死者との交流
怖い話ではなく、考察。
お盆最終日にして、お盆についてを娯楽作品を交えて考える。
この季節になると「お盆は何のためにするの?」という話題が上がる。
下記はそれに対する私なりの回答。
先ず、最近見たゲーム『Folks Soul』に感動を覚えた。
『Folks Soul』
http://www.jp.playstation.com/scej/title/folks/
――あらすじ――
「死者に会える」という伝承の残る辺境の廃村・レムリック村。主人公・エレンとキーツは引き寄せられるようにその村へと誘われ、そこである女性の死を目撃する。その村では17年前、次々に人が殺されていく事件が起きていた。その出来事を話さない住人、再び殺人が起こり始めたこの村で、エレンとキーツは「死者」から17年前の出来事を聞き事件を解明する。
可愛らしいキャラクターデザインも魅力的なファンタジーアクションゲーム。
作品全体にケルトの信仰の要素があり、それが世界観を表している。
“死者からの手紙”を受け取り、“死者に会える村”に赴く主人公・エレン。
彼女は“シーの霊衣”と呼ばれるものを身に付ける事で異界との往き来をする。
私は“霊衣を着る事で異界に赴き、死者と対話する”という設定に惹かれた。
日本の盆踊りに近いものがある。
それは『西馬音内盆踊り』
別名を亡者踊り。
彦三頭巾を被り、顔が見えないその姿。
踊る時に着る衣装は端縫いの衣裳と呼ばれるもので、先祖から受け継がれる。
それは故人の着物の端切れから作られている。
参考:『西馬音内盆踊保存会』
http://www.bon-odori.jp/
そこに伝統芸能の、故人の“受け継がれる意志”を見出すことは容易だ。
だがそれ以外に故人の遺品を身に纏い、踊る事で思い出される、故人の姿――
西馬音内盆踊りは故人を想う事で"memento mori"死を想っているのではないだろうか?
そしてお盆には先祖霊が帰ってくるという。
西馬音内盆踊りは別名通り、故人と共に踊っているのである。
これが上記ゲームの死者との対話にリンクする。
そもそも盆踊りはアジア伝来の仏教供養と日本の祖霊崇拝が結び付いて、芸能となったものだ。仏教の教義よりも原始・古代宗教の要素が色濃い。
ケルトの信仰と近いものがあるだろう。
そして盆踊りや縁日、祭りというものは“晴れの舞台”であることも重要だ。
ハレという言葉には本来「折り目・節目」を指す概念である。
日本にはケ(日常)とハレ(非日常)という概念がある。
参考:『ハレとケ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1
非日常―ー仕事をして疲労する日常ではないということ。
人生の節目であったり、変化の時であること。
死を想うこととハレ、日常生活を営むだけであるなら一見不要とさえ思えるこの2つが必要とされる理由は
人が日常を生きる“活力”を得るためだ。
ゲームに話を戻すと、主人公は死者との交流を通して、死生観を自問し、自身が生きている事と生きようとするために死を想う事を肯定する。
そして西馬音内(に限らず)盆踊りとお盆というものは、故人、死を想い生きる活力を得るためのものではないだろうか。
そしてハレ、非日常の中で日常生活で削られた気力に日常とは違う体験をすることで活力を得る。
この二つの要素が合わさっているのが、盆踊りであり、お盆である。
駆け足になってしまったが、これが私の今の考えだ。