映画『プロメテウス』考察――神話における巨人の人類創生と人間が失った神性
映画『プロメテウス』を考察すればするほど、巨大な宗教や神話と共にある人類の歴史について考えなくてはならなくなってしまった…
【過去日記】映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性
以前の「映画『プロメテウス』考察」は聖書のモティーフを中心に書いた。
そしてタイトルが示す通り、ギリシア神話の事も避けて通れないようだ。
内容のテーマというより、モティーフの話だ。
感想で“プロメテウス”は巨人族でありながら人間の味方をし、人間の尊厳を主張した存在として少しだけ触れるに留まった。
何故なら私の中で一般的なプロメテウスの人間の創造と映画『プロメテウス』における人類創造のきっかけとなるイメージが合致しなかったためだ。
だが『オルフェウス教』という興味深い本を読み、古代ギリシアの巨人による人類創造の物語が、映画『プロメテウス』の人類創造と深く関わっている可能性に気が付いた。
それをしたためておこうと思う。
きっかけとなったのは上記。
『オルフェウス教』は供犠を必要とする古代ギリシアの国家(ポリス)宗教に異を唱えた“オルフェウス教”についての本だ。
参考:オルフェウス教(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
古代ギリシアの国家(ポリス)宗教は神々に対して供犠を行う習慣があった。
一般的にこれを非難したのがキリスト教と言われているが、それよりも以前にオルフェウス教がそれを唱えていたらしい。
『オルフェウス教』の中で古代ギリシアの宗教観が紹介されているのだが、その中にある人類の創造が映画『プロメテウス』に通じる。
それは古代ギリシアの宗教観において、人間の創造が“神殺しをした巨人族が罰を受けて殺され、その塵から生まれた”というものだった。
巨人による人類創造
「神話」における人類創造の物語は、多くの地域で共通したものがある。
巨人が人間の創造に関わるのだ。これはギリシア神話、北欧神話(ユミル)、インド(プルシャ)、中国(盤古)にも見受けられる。
各神話の巨人たちは様々な理由から殺され、その遺骸から人間は生まれている。
現在、多く読まれているギリシア神話物語のプロメテウスの人類創造はオウィディウス『変身物語』から来ている。
人間(男)を創ったのはプロメテウス(ティタン神族/巨人)だった。そのプロメテウスが囚われた後に鍛冶の神・ヘパイストスの手により人間の女・パンドラが創られる。
しかし、これとは別の物語が存在する。
それはティタン神族(巨人)がゼウス(オリンポス神族)の子ザグレウスを殺した(神殺し)罪により、ゼウスの雷霆を受けて殺害され、その焦げた塵(灰)から人間が生まれた、というものである。
参考:ザグレウス
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/zagreus.html
古代ギリシアの宗教における原罪とも言うべき人間の誕生物語だ。
これが映画『プロメテウス』の冒頭のイメージに酷似している。
太古の地球で一人残り、謎の黒い液体を煽り、遺伝子レベルで分解される“エンジニア”。
黒い塵となり、滝に落ちてゆく。
水の中でそれは再構築され、生命が生まれる。それは長い時間をかけて人間となった――
そうなると、冒頭における“エンジニア”は何か罪を犯したのだろうか?
ザグレウスの人類創造神話に話を戻そう。
この神殺しの罪故にティタン神族(不死)から、人間は生まれながらも不死の性質(神性)を失っているという。
この考えを元にすると、映画『プロメテウス』でウェイランド社社長が死の回避できると考えた事に納得がいく。
映画では人間を創る技術があるのだから、人間の死の回避方法を知っているのではないか?という推測が伺える。
そして上記神話を踏まえると、「人間は死ぬようにできている」という事になり、剥奪された不死を得たいと進言しているようにさえ思える。
細かい思想については割愛するが、『オルフェウス教』によると、古代ギリシアの国家宗教は「神と人が大きく隔たれた存在である」と考えていた。それ故にこの原罪を再現(供犠)することで人は己の存在の由来を再認識(通過儀礼)し、罪の自覚もって神と人が繋がりを保つと考えていたのである。
だがオルフェウス教は人は「原罪があれど神と人は不死の魂をもって繋がりがある」と考える。それ故に供犠は罪を再び行う事なので、供犠を否定し一切の殺生を禁じ(禁欲生活)身を清め赦しを乞う事に重きを置いたようだ。(ただし供犠に替えて葡萄酒や香を用いての儀式をもって供犠を再現している)
神話に基づいて解釈すれば、死の回避(不死)を願うウェイランド社社長に“エンジニア”が激昂して殺害に及ぶのは、人が死すべき存在であること、人間の罪が赦されていないためだろうか?
そして“エンジニア”が人類を滅ぼす理由は果たしてその罪故なのだろうか?
これは冒頭の“エンジニア”が何かしらの罪を犯したなら、の話だが。
エイリアンとの関連性
考察をされている多数のサイトを拝見し、興味深いものがあった。
『プロメテウス』 エイリアンに反する人類の起源
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-352.html
上記サイト様の考えでは『エイリアン』は‘(科学的知見によって)伝統的な固定観念を破壊し、文化的・宗教的な足かせから人々を解放し、新たな世界、新たな展望を語るそれは、SFと呼ぶに相応しい作品だった。(中略)『プロメテウス』は、科学的知見に基づいて新たな世界や新たな展望を語るSFではなく、既存の宗教を引用することで、SFに傾倒していた人たちに伝統的文化を思い出させる作品’であるそうだ。
この意見に私は同意する。
同時に『プロメテウス』もまた『エイリアン』のようにキリスト教的なものを破壊しているように思える。
前述した通り、オルフェウス教がキリスト教の先駆け的な可能性がある事は否めない。
酒や香を使った通過儀礼、供犠に対して異を唱えた事、魂の不滅と神との親近感、受難を経ての復活――といった共通項は枚挙に暇がない。
そしてザグレウスが関わる巨人の人類創造神話によれば人間は神殺しの塵から生まれたのなら、聖書に同じく人間というものは罪の生き物という事になる。
『プロメテウス』は伝統文化(西洋におけるキリスト教)を思い起こされるディティールの中で、オルフェウス教≒キリスト教の教義により身を清める事が意味を為さない(『エイリアン』と同じくやはり宗教は無意味)という話にも受け取れた。
あるいは、オルフェウス教≒キリスト教を否定し、まっさらな状態で根源的な部分を再認識させる事で(宗教や宗派とは異なる)別の可能性を示唆するのだろうか?
欧米には「罪の文化」というキリスト教的価値観が根底にある。それを打開する布石となるだろうか。スピノザが唱えた汎神論のように。
上記サイトでは‘エンジニアが地球を滅ぼそうとしたのは私たちが彼らの代表の一人を磔にしたからだ、すなわちイエス・キリストは異星人なのだ、というスクリプトを書かれていた’事を紹介している。このスクリプトが映画本編に有効なものかどうかは不明だが。
どちらにせよ続編に『プロメテウス』の冒頭の真相、真意が描かれるのだから、それを楽しみに待とう。