映画『プロメテウス』考察――“信じる”という人間性
『プロメテウス』公開当初、素敵にデザインされたネタバレ画像など公開されていた。物語としてはこんな感じかも知れない。(このメンデルの法則っぽい足し算にも疑問を感じるのだが)
先日書いた感想で、『プロメテウス』が題名からギリシア神話を主軸に描いた。
【過去日記】映画『プロメテウス』感想
人間味あふれる神(エンジニア/創造主)という、ギリシア神話的な要素についてだ。
だが、細かいディティールから聖書のヴィジョンが強いので、それについて書きたい。
特に物語としても、重要な存在であるアンドロイド“デヴィッド”の存在を中心に書く。
1.デヴィッド
このデヴィッドという名前、聖書では非常に重要な名前だ。
古代イスラエルの王、伝統的に『詩篇』の作者とされてきた。それ故、ユダヤ・キリスト・イスラム教において重要な人物なのだ。意図があると思う。
参考:Review:映画 プロメテウス
http://www.yasuhisa.com/could/review/prometheus/
更に聖書のヴィジョンは他にも現れていたと思う。
冷凍睡眠から覚めた老齢のウェイランド社社長の足を洗うデヴィッド。
言わずもがな、『弟子の足を洗うキリスト』である。
参考:Arts at Dorian 主題解説『弟子の足を洗うキリスト』
http://art.pro.tok2.com/Bible/DPassion/02Wasing/02Washing.htm
献身と、魂の穢れを清めるキリスト教、という意味が込められたエピソード。
ウェイランド社社長はこの後、創造主とも言うべき“エンジニア”との対話をするのだから、これは重要な儀式、禊のようなものであったと思う。
そうだとすれば、何故身を浄める必要があったのか?
映画の感想を拝見していると、興味深いものがある。たどり着く惑星LV223とは Leviticus 22:3に基づくという。
彼らに言いなさい、『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。
わたしは主である。旧約聖書 レビ記(日本聖書協会発行1955年版)
下記感想サイトによれば、‘本作ではこの神の言葉のとおりに、LV223を訪れた調査団の命が絶たれる。神が作った人間の子孫であっても、勝手に近づく者は「断たれる」のだ’という。
参考:『プロメテウス』 エイリアンに反する人類の起源
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-352.html
身を浄てもそれは意味を成さず、ウェイランド社長は命を断たれてしまう。
ウェイランド社長の死の回避という望みを代弁したデヴィッドは
「この老人はもっと生きたいと思っています。かなえられますか?」
と言っていたそうだ。
参考:探求の心「プロメテウス」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
http://kagehinata64.blog71.fc2.com/blog-entry-399.html
元より、人類を死に至らしめる生物兵器を地球に齎そうとしていた“エンジニア”
延命(というよりはやはり不死)を望む発言は意に反していたためだろうか?
2.アンドロイドと人間
人間が自らに似せて作ったアンドロイド。
「人間はなぜアンドロイドを作ったのか」とデイヴィッドが同行している人間のホロウェイ博士に問うのは、旅の目的を揶揄しているのに他ならない。
それに対するホロウェイ博士の「作る能力があったから」という発言。
“エンジニア”がいるなら、同じ被造物である人間。“エンジニア”も人間に同じ発言をするのだろうか?
似て非なる存在に、人間はその違いが見えてくるような気がする。
その違いは「信じる」ということになるのではないだろうか?
デイヴィットは好奇心旺盛で、あらゆる事を学ぶ。純粋な子供のような姿だ。だが、彼はその知識を己の意思で使った事は一度も無いように思われる。彼はその知識を、行動を「父」とも言うべきウェイランド社長の「命令」により実行している。
アンドロイドは命令を実行するために作られた存在でもある。
これは、己の信念を持って遺跡を発掘し、調べ、行動する人間のショウ博士とは大きな違いだ。
小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思い出す。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
そういえば、この小説の映画版『ブレードランナー』はリドリー・スコット監督であった。
小説に出てくる宗教「マーサー教」は「共感ボックス」という機械で感情を共感し、皆が一様に同じ経験・感情を共有する事で人類愛を実現?している。
墓穴世界で死に瀕し、老人に助け出され再生をくり返す通過儀礼の体験に人類は夢中になっており、そのヴィジョンは太古からの人類共通のもの(集合的無意識?)と人々は考えていた。
しかし、それがアンドロイドによって単なるフィクションである事が、出演した老俳優の証言と共に暴露される。偽りであること、人類がそれに騙され踊らされている事を嘲笑うアンドロイド達。
だが、信者の1人と老俳優は「共感ボックス」を通じ、対話をする。老俳優は「(アンドロイド達は)なぜなにひとつ変わらんのか、連中にはそれがおそらく理解できまい」と語る。
人間が、偽りであっても信仰を、信じる事を止めないことを、ロジカルなアンドロイドは理解できないのである。
『プロメテウス』が『エイリアン』に反する人類の起源――人類を造りたもうた神の肯定、キリスト教的思想の復興であるとしたら、それは何故必要なのだろう?
復興、と言ってもそれが聖書至上主義に凝り固まったものではない事は言わずもがな。
もしかしたら、閉塞した世界観の中で新たな抜け道となるもの、或いは新しい縁(よすが)を見つけだしたのかも知れない。一神教の中にあって、汎神論的哲学を説いたスピノザのように。
それを『プロメテウス』では遺伝子の再構成により誕生した、“エンジニア”(創造主)の似姿である人類という、ハイブリッドにする所が凄い。
1996年10月23日、「ローマ教皇ヨハネ・パウロII世がついに進化論を認めた」という発表をしたというニュースを今でも覚えている。
だが、これは『進化論』の『創造論』に対する勝利という意味は成さない。これは『進化論』『創造論』両方の“仮説”を認めたという事だった。
参考:『最近発表されたローマ教皇の進化論支持は、何を意味するのか?』
http://www.christiananswers.net/japanese/q-aig/aig-c017j.html
これに通じるものがあるようだ。
日本での宣伝文句は、実は的を得ている。
“なぜ人類誕生の瞬間は、空白のままなのか。”
「進化論があるではないか」と思うだろうが、では何故猿から進化したのか?そしてどうして起こったのだろうか?
それこそ、神がそうさせたというのか?
それについて人類は知らない。そして何を信じているのだろうか?
日本では『創造論』になじみが薄いと思うが、アメリカでは『創造論』は根強く、どちらを学ぶべきかで論争もあるようだ。
『進化論』は確かに人類の起源を証明できるかも知れないが、確固たる証拠が未だ無く、議論が続いている。
どちらも人々の間で“信じられている”ものに過ぎないのである。
それを確かめようと、解明しようと信じて歩むのが人間だった。
3.黄泉への道行き
上記、聖書の世界からは少し離れてしまうのだが、もうひとつの解釈を…
物語の終盤、生き残ったショウ博士とデヴィッドは死の惑星から脱出するが、私は彼らは“死後の世界”へ行こうとしているように思えてならない。
何故なら冒頭のショウ博士が見ている夢は、幼少の時に遭遇した葬列と死について、そして父親から聞く死後の世界、天国(宗教)についてだった。
この想像をすると、元と末が符号する。
そしてこの想像でもデヴィッドが象徴的な存在になる。
死に逝くウェイランド社社長に対し「良い旅を」と言い、死の回避の旅から死後の旅へとシフトした事を意識させる発言をした。
更に胴体と別れた デヴィッドの首を鞄に入れファスナーを閉めるシーンは、遺体を袋に詰める時のようだった。
聖書に“死後の世界”については書かれていない。
聖書は死について語らない。死は沈黙であるためだ。あるのは裁きと復活だ。
聖書の世界観取り入れた死後の世界のヴィジョン、天国と地獄という概念が明確に描かれているのはダンテ『神曲』だろうか。
物語が死後に結び付くかは分からない。
何故なら続編のタイトルは『パラダイス』(楽園)であり、天国でも地獄でもない。
デヴィッドが『詩篇』を象徴するなら23篇には興味深い行がある。
Nam et si ambulavero in valle umbrae mortis,non timebo mala, quoniam tu mecum es.Virga tua et baculus tuus,ipsa me consolata sunt.
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
真実を求め未知の世界へ行く、十字架を手放さないショウ博士と、 それを「理解できない」と言いながら一緒に行くデヴィッド。この2人にこの言葉はかかるような気がする。
……断片的な解釈に留まってしまった。
しかし、それだけ切り口の多い物語にやはり私は満足している。
元々「あまりにも哲学的な内容で、脚本が分厚くなり、2部構成にした」という話なので、続編も膨大なバックブラウンドと観客を魅了するエンターテイメントになるだろう。