『崖の上のポニョ』考察 ――反転する神話・伝承

白黒イラスト素材【シルエットAC】
JUGEMテーマ:映画の感想

この日記は感想ではなく、個人的な考察です。
製本された文献に当たっていないので、学術的なものではありませんので、ご了承下さい。


先日放映された『崖の上のポニョ』を見て、私は今までの宮崎映画と真逆の印象
を受けた。

“異界が現世(うつしよ)に現れ、現実に入ってくる”のである。

『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』は子供がふいに異界へと引き込まれ、大冒険をしてから現実に戻る。ファンタジー論で度々語る王道の“現実を活きる力”を手にし、帰ってくる。
しかし『ポニョ』においては異界の住人が現世にやって来る。
この逆転は何故だろうか?
思えばこの映画は所々で神話・伝承のイメージが“反転”する印象を受ける。

例えばポニョは“人間になっても泡となって消えない人魚姫”である。
日本の人魚伝説である『八百比丘尼』は人魚の“肉"を口にした“少女”が不老不死、則ち人間ではなくなるのだが、
『ポニョ』では魚に“少年”が“血”を与え、半魚人にしてしまうのである。
参考:『八百比丘尼』
http://www.mus.city.kasugai.aichi.jp/story/mukasi9.html
他にもポニョの手を引いてトンネルを通るシーンは黄泉比良坂を思い出させるが、次第に形が変わるポニョを、宗介はイザナギのように驚いて手を離すことはかった。

随所に垣間見る逆転、反転。
私はこれに意味を感じた。

それに関係する事として、もうひとつの視点“子供の力”を感じる。
状況を客観的に考えると「こわい」状態にあるにも関わらず、子供は怖れない。
寧ろ状況を楽しむ。
津波が来て街が水没しても臆せずに母・リサを探しに行く宗介の姿や、世界に歪みをもたらしかねない禁術に身を呈するポニョの行動さえも。
“子供の力”無限の可能性は宮崎映画の要素に欠かせないものであるが、今回はその子供に別の意味も見た。

私が気になったのは“主人公の年齢が五歳である”点である。

七五三を覚えているだろうか。
七五三の由来は諸説あるが、神隠しに会わず成長し人間の子となった事を祝う儀式とする説がある。
参考:『七五三と神隠し』
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0035.html

半魚人であったポニョが人間になった年齢もまた五歳だった。
それらを踏まえると、宗介もポニョもこの時人間となったのではないだろうか。
そうなるとこの物語は“人間になる”ための物語とも言えるのではないか。

よく“宮崎版『人魚姫』”という声を聞く。
だが、ディ○ニーの『リトル・マーメイド』のリメイクではない。
『ポニョ』からはそんなご都合主義な愛の成就と大団円な印象は受けない。
異界の存在が現実に来るのは確かだが、それは“異界の存在そのまま”ではない。則ち“魔法を捨てている”点である。
ポニョは魔法が使えない人の子になった。
それは現実を生きる人の姿である。

反転する神話・伝承。
神話・伝承を踏まえた上でこれを覆し、超越を無に帰す。
それを行うのは子供の無邪気な現実を“活きる力”だ。

こうした観点から見ていると、前述した今までの宮崎映画と真逆の印象を受けたと書きつつも、これまでの延長であるようだ。
『ポニョ』は物語前半での定番“子供がふいに異界へと引き込まれ”る行が無いのだ。
つまりこの映画は異界を現実に引き寄せたのではなく、初めから“異界”であり、そこから戻るのがこの物語ではないか。
強引に言ってしまえばそれを観る人を現実世界に引き戻す物語ではなかろうか。

以上を踏まえ、私にはご都合主義な愛の成就、幼い子供の純粋な恋愛というより人間として活きる原点を描写しているように思われる。

何故、それを必要とするの、私にはまだ結論が出ていない。
今を生きる人間は、異界(あるいは空想)に引きずり込まれたままなのだろうか?

以下、Web拍手レス

1ヶ月溜めていました、すみません…
2010年1月11日 22時
2010年1月25日 5時
2010年1月28日 4時
Web拍手有難うございます。

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