『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』考察六

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先月地上波でヱヴァンゲリヲン新劇場版『破』が放映されて、久しぶりに拝見。そこでいろいろ気づいたことをざっと書いてみる。
※亜綺羅の個人的解釈。

結論からいうと、ここはやはり旧作の延長であることの確信を得た、ということ。
そして新劇場版の人々は“既に死んでいて、生き返ろうとしている”のではないだろうか?

旧作の延長であることは色んな考察サイト等でも指摘されていると思う。
『破』のヱヴァ3機での戦闘において、シンジの貫かれる両手、アスカの蹂躙され失う左目に象徴される、旧作で受けた傷をパイロットは受けている。それが示唆している。

そして私が“生き返ろうとしている”と思うのは細かいディティールに死を思わせるものがある為だ。

その象徴に感じたのが、葛城ミサトだ。
葛城ミサトの階級は「一佐」と呼ばれていた。TV版・旧劇場版において彼女は「三佐」である。
2段階昇格している。これはなぜか。
短絡的な考えは“殉職による二階級特進”である。

そこから想像できることが、新劇場版の人々は旧劇場版の延長で既に死んでいるということだ。

もし彼等が死んでいるのであれば、新劇場版の世界は一体何処だろうか?
序盤の“第三の使徒”との交戦にて、戦場となる場所のキーワードが"LIMBO(辺獄)"
使徒を出してはならないとした場所を“アケロン”と呼んでいた。
これはダンテ『神曲』でお馴染みの宇宙観での最上部。地獄の入り口であり、現世との境界だ。
この台詞が、この新劇場版の世界を端的に現しているのではないだろうか。

それについては、下記ブログの言及が秀逸なので、こちらを参照して頂きたい。
[映画]「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」フラグメンツ[考察]

以上を踏まえて旧劇場版で一度滅び(死んで)、新劇場版で再生する(生き返る)ことが、(劇中の言葉で言うなら『人類補完計画』)の真意ではないだろうか。

思えば、旧劇場版で既にゼーレはその時行われた『人類補完計画』を“通過儀礼”としていた。
シンジはA.T.フィールド(ABSOLUTE TERROR FIELD)を失い全てのヒトの形が失われた世界で、再びヒトの再会を望み、
それに呼応してレイやカヲルがヒトは己の力で、ヒトの形を取り戻す事ができると語る。

A.T.フィールドは『心の壁』であり、原動力はリビドー(生、性の欲望)であるとされ、個々人の形を形成するものとしても描かれていた。

旧劇場版でA.T.フィールドを失ったヒトはA.T.フィールドを取り戻すことができるのか。
それが可能であることを『破』終盤の「最強の使徒」との決闘が示している。
劇場で観ていて気になっていた、初号機の失った左腕“復元”
TV版では使徒のパーツを使って肉を“再生”させる。しかし『破』は光で出来た腕だった。
この光の腕、初見で考えが至らなかったのだが、A.T.フィールドで出来た腕ではないか?これは上記ブログにも言及されていた。これに対して私は同意見だ。

では、死んで生き返る事を何故するのか?
私は前述したダンテ『神曲』と似た体験をするためだと思う。
主人公のダンテは己の人生の道に迷った時、師や愛する人の手助けを借りて死後の世界を巡り、再び己の人生を取り戻す。
これは神話やファンタジー作品等にて行われている“通過儀礼”に共通する。

だが、現実の人間は死んでしまえばそれで終わりだ。それでは通過儀礼にならない。“死ぬ”という言葉は極端なので、“死ぬと思う程の傷を負う”と置き換えてみよう。

何のために傷を負うのか。そうすることで自己が確立する、確立させるためだ。
ドゥルーズが『意味の論理学』でジョー・ブスケに捧げた言葉がそれを示唆している。
「私の傷は、私に先行していた」

すなわち主体の成立条件は「外傷」にほかならないのである。(中略)まかりまちがえば、狂気(分裂病)の側へと送り込まれるかもしれぬ「力の一撃」を全身に蒙った者が、主体の生成を演じる。(中略)「自律せよ」「一者であれ」という呼びかけに、律儀に応じた者が、この栄光と悲惨を体験する。

ドゥルーズの『意味の論理学』は

前述したジンジ、アスカの旧劇場版で受けた同等の傷を負うこともそれを象徴していると思われる。
傷の克服≒生き返るの図式。
傷を受けつつも克服する術を見つけることが、生きる道を見つける事に他ならない。
ヱヴァ新劇場版はそれに至ろうとする。そのために死に至った既存を『破』壊しなければならない。そういう話だと思う。

自分の死を忌わないレイにシンジが「綾波は綾波しかいない!」と言えたように。

余談:真希波・マリ・イラストリアスのこと。

彼女は“『ヱヴァ』を無くす”役割を担っているのではないだろうか。
出だしで仮設5号機を破棄させ、2号機に捨て身の戦法をとらせる。
自分で書いた考察から出申し訳ないが――
『エヴァンゲリヲン新劇場版: 序』考察弐にて
‘例えば、エヴァンゲリオンを失う事でシンジの中で己の存在も必然的に変わるのではないか’
に至るための布石として、彼女はそれをするのではないだろうか。
エヴァンゲリオンの無い世界。
それはエヴァンゲリオンを見ている私達の世界。
現実に近い世界。
私達を現実に立ち返らせるために、このヱヴァンゲリヲン新劇場版が存在するように私は思う。
キルケゴール『死に至る病』のように。


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