『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』考察五
何だかんだ言って2回見た『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
今回の『破』は非常に“見やすい”ものであったと思う。
ギャグ描写も多く盛り込まれ、学園生活の楽しさや、社会・人間関係の肯定。
激情からであるが、立ち向かう主人公。
それは旧作で抑圧され、苦悩・恐怖し、自閉していた主人公の“可能性”だ。
展開としては、目新しさというものでは無いかもしれない。
そういった“王道”さと旧作との微妙で絶妙な“違い”が新たな期待となり、支持されている。
ディテールについても色々と考えられるが、今は『エ(ヱ)ヴァンゲリオ(ヲ)ン』という作品について考えてた事をまとめてみた。
見やすさの要因として“オマージュ”があるように思う。
『365日のマーチ』や『今日の日はさようなら』『翼をください』など70年代ヒット曲や馴染みのある曲が挿入歌として使われた。
聞き慣れているので、頭に入りやすい。
勿論、それ以外の要因もありそうだが。
思えばTVシリーズにおいても、こうしたオマージュが多々あった。
それらは庵野監督作『不思議の海のナディア』との関連、『風の谷のナウシカ』の影響、『AKIRA』『オネアミスの翼』の系譜との指摘に連なる。
そのまま取り入れるだけでは“パクり”であろうが、元を踏まえた上で新しい価値観・解釈を加える。
また、アニメ作品だけてなく、映画のオマージュも随所に表れる。ゼーレを象徴するモノリスは『2001年宇宙の旅』に表れるモノリスと同じ比率のものであるし、TV版でのギャグエピソードは『犬神家の一族』のパロディだった。
これは映画表現を積極的にアニメに取り入れようとする動きがあるためだが。
映画もアニメも、表現はこうしたものの連続で出来ている。
例えば“思春期の少年が父親の作り上げたロボットに乗り、大人になりかけの少年にとって主役メカが「力の象徴(社会への参加資格に見える”ことは「ガンダム」やそれに繋がるロボットアニメの王道、共通項だ。
『新世紀エヴァンゲリオン』はそうしたもので出来ていた。
そして『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は『新世紀エヴァンゲリオン』のオマージュであり、延長の物語だろう。
王道のハイブリッド故に斬新さがあるということ。
以前の日記で映像が斬新だったと書いたが、そういったものは温故知新から生まれている。
「すべての知識は追憶に他ならず すべての新奇なるものは忘却に他ならず」
フランシス・ベイコン
つまり文化というものは、こうしたものから出来ているということか。
では、こうしたものを取り入れる事で文化に成り得るのか?
カルチャーの定義からエ(ヱ)ヴァンゲリヲ(オ)ンは日本のカルチャーと成りうるか?という疑問。それははっきり言って愚問だろう。
まだ完全に“世代”を越えていないから。
私が『序』を観に行った時に周りにいたのはほぼ同世代の人々だった。
しかも何故かアベックばかり。何故だ。
そして『破』も然り。
徐々に若い年齢のファンも獲得しているようだが。
時代毎に新たな価値観、発見を見出だされながら、エヴァである普遍性を貫けたら文化になったことになるのでは無かろうか。
それはまだ先の話で、今回の新劇場版はそれへの布石ともとれる。
渋谷109での広告ジャック、様々な企業とのコラボレーション。商業主義のイメージも強いが、それ故に後世に残るのもまた事実だろう。
認知度は既に充分だが。
次回作を期待するのはまだ速いか。
暫く『破』について咀嚼していたい。
此処に書いたものは所詮一部分に過ぎない。
そして駄文に過ぎない。
余談だが、マリのピンクのプラグスーツはカワイイ。
マリ「胸もぴったり」
揺れる胸。
以下、Web拍手レス
6月25日 11時
7月2日 1時
7月16日 21時
Web拍手有難うございます。
更新滞っていてごめんなさい。生きてます。頑張ります。