『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』 考察四
先日書いたものの続きになる。
キャラクター毎にそれぞれの変化について書いていたが、今回は主人公・碇シンジの父、碇ゲンドウについて書いてみようと思う。主に旧作との相違点とTV版最終話に絡めての話。
今回はこちらのブログの意見も参照。
Silhouette(管理人:真月さま)
ヱヴァンゲリヲン 破 感想と考察破片(*ネタばれ注意)
その前にちょっとしたまとめのようなもの。
『破』公開から3週間経ち、アニメ、映画雑誌にもネタバレは無いまでも、感想や考察が書かれているものが出てきた。
『破』の特集を組んだアニメ雑誌『Newtype』において、旧作との差異について藤津亮太氏の寄稿に端的に書かれていた。
だからドラマももはや、「理不尽な抑圧」と「子供っぽい逆ギレ」は登場しない。その代わりに「やらなければならないことをやるのが大人(ゲンドウ)」と「やりたいことをやるのが子供(シンジ)」という年齢故の対立が描かれる。そしてその間の世代(ミサトや加持)は、その2つの立場で揺られつつも、大人と子供を繋ごうとするのだ。
以下、ネタバレも含む可能性があるので続きに記載。
碇ゲンドウ
ある意味、過去の象徴のようにも取れる。
“最強の拒絶型”と呼ばれる使徒・ゼルエルの襲来を受け、ダミーシステムによる初号機起動を試みるも、初号機はこれを拒絶。起動しない。
ゲンドウは「私を拒絶するつもりか、ユイ」と嘯くが、果たして初号機の中にシンジの母・ユイは存在するだろうか?
私の考えから言うと、否である。考察弐及び下記(※)参照。
では、何がダミーシステムを拒絶するのか。
シンジの怒り・自主的な意思そのものだと思う。
そう考えると、ゲンドウは“ユイの魂を宿した初号機”という過去の想いに捕われた男に過ぎない。
それは旧作からそうであったか。
思えば旧作劇場版『Air/まごころを、君に』ではユイとの再会の後、初号機に喰われる。
ゲンドウ「その報いがこの有様か。すまなかったな、シンジ。」
指摘されていた事だが、報いで喰われただけでなく、シンジとの同一化の願望の表れであったようだ。
そのシーンはゴヤの名画《わが子を喰らうサトゥルヌス》を思い出させもする。
サトゥルヌスはギリシャのクロノスと同一視される農耕神.天空神ウラノスと大地の女神ガイアの息子だが,子供たちを冥界に捨てた夫を恨んだガイアは息子に鎌を持たせてウラノスを去勢させてしまう.父の支配権を奪った彼は主神ユピテルらの父となる.しかし今度はその子が彼の支配権を奪い取るだろうという予言を聞き,彼は生まれる子を次々と貪り食った.幸いにもユピテルは母レアの機知に救われるが,何とも呪わしい太古の神話である.
諸川春樹監修『西洋絵画の主題物語Ⅱ 神話編』
己の地位を奪われる事を恐れて喰らい続けたという。末子(後の主神ユピテル/大神ゼウス)が生まれるまでは。
父・ウラヌスへの自身の業罪の自覚からくる狂気か。同じ轍を踏まぬようにという意思か。
同時に、自身を超えんとする子の能力を得んとする意思(強引に同一化)の裏返しのように思えてならない。
旧作劇場版では、初号機(子)にゲンドウ(父)が喰われるが、根底に流れる意図は同じだろう。
「父さん!僕はヱヴァンゲリヲン初号機のパイロット、碇シンジです!」
シンジがそう叫んだ時のゲンドウの手の、動揺した描写は興味深い。
それは父の敗北の予兆に思える。
何も父を斃すことが重要では無い。それは乗り越えることが重要で、それは即ち“理不尽と思える社会を変えんとする力”であり、それは普遍的。押井守監督の『スカイ・クロラ』のように。
シンジはそれに向かっていくのだろう。
(※)ヱヴァンゲリヲン
補足として、『破』劇中でシンジはヱヴァに乗っていると安心し「お母さんの匂い」がすると語るので、母との繋がりもあるのかも知れない。
だからと言って旧作と同じ印象は受けない。
旧作でシンジはエヴァの‘匂い’に関して、‘血の臭い’がすると嫌悪と死を連想していた。(それでも落ち着く、とも語っている)
母の魂を継承しているというよりも、その形骸のようなもので、ユイの意思よりも、それを踏まえた何かと考えるのが私には納得がゆく。