『エヴァンゲリヲン新劇場版: 序』考察弐
やはり今年も作ったのか…UCCエヴァ缶。
買ってしまった…
それに因んでという訳では無いが、『序』考察というか、解釈というか、『破』に続くにあたり、妄想のようなもの。
エヴァンゲリオンにおいてもそうであったが、オカルティズムや諸々の要素は物語の布石に過ぎない。
大切な事は結局、『エヴァ』を観た、物語を共有した人間がその経験を通して、今度は現実世界をどう生きるかという事だろう…
と思いつつも無駄に考えてしまう。
旧作を踏襲しつつ新しい試みをしている点は言わずもがな。
先ずは若干変わった“キャラクター”について。
エンディングで唐突に現れたカヲルの「また三番目の子供とはね」という言葉。
劇中でもネルフ上層部の人々の言葉から、旧作から続く‘仕組まれた子供’という言葉が思い出される。
新劇場版において、エヴァンゲリヲン・パイロットは“第一の少女”“第三の少年”と呼ばれている。
TVシリーズから旧作においてエヴァンゲリオン・パイロットは“チルドレン”と複数形で呼ばれていた。
これは綾波レイ(渚カヲルも)がクローン体である事が起因で、シンジやアスカは関係無いようだった。
その矛盾の修正だろうか。
‘仕組まれた子供’という言葉に、私にはこれが“観る者”に主体がある事を示唆している様に思われる。
パイロットの少女達の名字に“波”という共通事項が発生した。
綾波、式波、真希波。
エヴァのキャラクターの面々の名字は戦艦からとられているので、波という字が使われているのは当然だろう。
しかし何故“波”なのか。
そこで思い出されるのは、冒頭の波のイメージ。
生命の誕生が海から――波が作った泡からという話がある。
海と女のイメージ。
海よ! あなたのなかに 母がある
母よ! あなたのなかに 海がある
三好 達治
実に詩的な言葉だと思う。確かに漢字の「海」には「母」という字がある。フランス語ではmère(メール/母)には、mer(メール/海)がある。どちらも発音は同じ。
ギリシア神話で海の神というと、ポセイドンだが、テティスという海の女神もいる。(元はメソポタミア神話?)そしてイヌイットの神話には海の女王セドナが。
日本神話にも宗像三女神(ムナカタサンジョシン)がいる。
もしかしたら、命を次世代に繋ぐことが出来るのは女性だから、その辺も絡むかも知れない。
1つ気になる事が生まれる。
それは『破』において“母との繋がり”の描写が無い事。
エヴァンゲリオン・パイロットは総じて母がいない。
旧作TVシリーズの頃、母親喪失がシンジにとっての欠落の一因であることが、当時多数出版された関連本に多数指摘されていた。
TVシリーズから初号機との繋がりが強く描かれ、初号機にシンジの母の魂が宿らせてある事も明かされていたので。
そして旧作劇場版の胎内回帰に繋がる。
新劇場版のケイジでは旧作TVシリーズ第壱話の様に初号機がシンジを落ちてきた電灯から守るシーンは描かれていない。
旧作劇場版において、アスカは弐号機の内に母を見つけ、アンビリカルケーブルを自ら断ち切る。シンジは母に別れの言葉を告げた。
その延長に『エヴァンゲリヲン』があるなら、TVシリーズ第壱話のような描写が無い事も頷ける。
では、咆哮を上げる初号機の“内”にあるものは何か。
命の危機に瀕した時、生きたいという欲求が起こる。それだろうか。
それは生きたいと思う己を認める瞬間ではあるまいか。
TVシリーズでは“エヴァンゲリオン・パイロット”としての自分しか認められなかったシンジ。
TV最終話では、シンジは自閉のすえ己の存在を認めた。
劇場版では母との癒着を絶って、自律するという事も示唆しながら。
例えば、エヴァンゲリオンを失う事でシンジの中で己の存在も必然的に変わるのではないか。
自然とそう思える瞬間が来るだろうか?
自律は自身の存在を認めた先に在るもの。
その次に、他者といかに関わり、自己を確立してゆくか。
そんな自己探求の物語になるのだろうか。
TVシリーズ及び旧作劇場版公開時はシンジらと同世代だったが、今はミサトらと世代が近くなってきた…
自己探求の物語はいくつになっても終わらない。
…思いつきの駄文。
以下、Web拍手レス
5月16日 23時
5月25日 21時
Web拍手有難うございます。