『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――闘牛とフラメンコ考Ⅱ
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』の最新刊が発売され、やっぱり感動してしまったので、その思いをしたためておく。
遂に主人公・チカが闘牛場に立つ話なのだが、その中でフラメンコの描写があった。
フラメンコ習っているが故の過剰反応だろうか……
だが、闘牛もフラメンコもスペインのアイコンとして言わずもがな。闘牛を語る上で避けて通れないだろう。
闘牛とフラメンコが、ルーツは違えど互いに影響しあい、共通の雰囲気を創り上げてきた事は以前の日記にも書いた。
『フレッチャー・シブソープ展(描かれたフラメンコ/闘牛とフラメンコ考)』
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』でチカの闘牛は「悪くない」という評価に留まり、良い闘牛をした時の誉れである牛の耳が出ない事に焦りを滲ませるチカ。
銛打ちとして共に興行に参加しているパブロは闘牛における人々を魅了するものが何であるのか示すために、チカに闘牛とよく似ているフラメンコを観せる。
老齢のバイラオーラ(女性の踊り手)がゴルペ(足裏全体を使って床を打つこと)を打った瞬間に場の空気が変わる。
チカはそれを感じ取り、彼女の中で老齢のバイラオーラと、チカの兄弟子である故・フランチェスコが纏う雰囲気が重なる――
擬音の表現が的を得ていると思った。
若いバイラオーラが細やかなサパテアード(足で床を打ち鳴らすこと)をこなす音の“ダカダカダダカダカ……”は鼓舞されるような音だ。
しかし老齢のバイラオーラによる“ドッ”という音は重さを感じさせる。有無を言わせないものだ。
「ド」の母音/o/は低音だ。音からもその低さから重心の低さ、すなわち重さがあることを強く意識させた。
その重い空気に惹き込まれる。
同じような経験を、今年の発表会の場当たりで体験した。
教室でベテランのバイラオーラだ。先生としても指導して下さっている。
先生が踊ると、その場にいた全員が息を呑んで見た。
会得するために先生の踊りを見ておきたいという思いだけではない。惹きこまれたのだ。曲種はファルーカ"FARRUCA" 奇しくも闘牛士の歌でもある。
参考:FARRUCAファルーカ
http://www.iberia-j.com/guia/farruca.php
フラメンコの魔力だ……重く立ち込める緊張感がある。
その空気の重さの本質は何であろう?
これが闘牛においても重要なのだろう。
フラメンコと闘牛の魔力を「ドゥエンデ」と言うそうだ。
「ドゥエンデ」とは言葉の意味だけ言うと日本の座敷童のようなものだが、スペインの芸術全般に流れるものようだ。
参考:『ドゥエンデについて』
http://www.jspanish.com/yomimono/lorca/lorca2.html
以前書いた闘牛とフラメンコがよく似た雰囲気を作っていった事で得たものだけでなく、スペインのアイデンティティーに通じるものなのだろう。
ドゥエンデについては 勝田保世『砂上のいのち―フラメンコと闘牛』にも言及されていた。それについては別の機会に書きたい。
話を『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に戻そう。
「あの若い踊り手も上手くやった」とパブロは言う。
確かに素早く丁寧なパサデアートに、その技術力に惹かれる。
しかしそれだけでは真に人を魅了するには至らない。
闘牛もムレタ(赤い布)を派手に振るだけでは真に人を魅了しないらしい。観客を沸かす事は出来ても。
コミックの闘牛のシーンはとても静かだ。ムレタの翻りで観客を煽るものとは違う。
闘牛における人々を魅了するもの――ドゥエンデ。
作者・えすとえむさんが表現しようとしているのはそれだろう。
フラメンコを習っている身としては、その空気の重さ、重要性を再認識させられた。
私は“ダカダカ……”どころか未だに“パタパタ…”という音しか出ない |||orz
余談:
銛打ちの3人の名前はパブロ、ディエゴ、サルバドールだった。
由来はスペインの偉大な画家達だろう。パブロ・ピカソ、ディエゴ・ベラスケス、サルバドール・ダリ。
思わず微笑が零れる。心做しか容姿も似ていると思ってしまうのは何故だろうか。パブロの頭が薄く背が低いためか(笑)
さらに物語のキー・マンである死んだ闘牛士の名前はフランシスコ……フランシスコ・ゴヤの名前から来ているとしたら、辻褄が合う。
ゴヤ、ピカソは闘牛を主題にした絵を多く遺した画家だ。ダリも闘牛士の主題で描いている。
ベラスケスは……描いてない…のか?