メチクロ×町田忍 トークショー『町田忍氏に訊く~霊柩車美学考』
昨日の話。
大学でお世話になった庶民文化研究家・町田忍先生のイベントに参加してまいりました。
今回の日記は、講演記録というか…自身の備忘録も兼ねているので…いつも以上に長くなるかと。
メチクロ×町田忍 トークショー『町田忍氏に訊く~霊柩車美学考』
“唐破風の持つ意味と、銭湯と霊柩車の関係性”についてのお話でした。
今回の講演に関心を抱いたのは、“死の文化”を知るためのきっかけとしたかったため。
芸術・文化の根底には、必ず“死”が横たわっている。ある脳科学者が「人間が人間となったのは、“死”を発見した事だ」という趣旨の言葉を言っていた。
死を祀り、装飾する精神の由縁を知りたいと思って。
そしてもう一つ。映画『おくりびと』のアカデミー賞外国語映画賞受賞という、タイムリーさも相まって。
銭湯を研究されていらっしゃる方が、何故霊柩車を?と思われる方も多いと思う。実際に私もそうでした。
それは、この二つに共通項があるためです。
前半は先ず、霊柩車の歴史についてのお話しからして頂きました。
霊柩車――
車が無い時代は、御輿だったそうです。それらは“使い捨て”で、現在のように使いまわすことは無かったそうです。(古い御輿が銭湯の木材置き場にあったそうで、恐らく湯を沸かす燃料にされたのではないか、ここにも霊柩車と銭湯が関係しているように思われる。との事でした)
霊柩車が普及する以前は、棺の形も座棺桶で駕籠や御輿で担いで葬列を組むのが主流だった。
初めて“霊柩車”なるものが入ったのは、大正6年に輸入されたT型フォード(黒塗り)だったそうです。多少、装飾が施されていたようですが、現在の欧米の霊柩車は黒塗りで馬車バネの意匠のみの、シンプルなものに。しかし日本では宮造りの豪華な装飾のものになりました。
少し話を脱線します。ゲームの話。
私もお気に入りのゲーム『デビルサマナー葛葉ライドウ 対超力兵団』『デビルサマナー葛葉ライドウ 対アバドン王』に出てくる“オボログルマ”。
電脳悪魔絵師・金子一馬氏デザインでは、事故を起して大破したT型フォード車デザイン。「オンボログルマ」と掛けているのでしょう…
このゲームの時代設定――大正二十年。
大正期の街並みをリアルに再現しているフィールドにも魅かれたこのゲーム。時代背景もきちんとしている。嬉しい限り。
T型フォードと霊柩車…その辺りを踏まえてデザインされたのかも知れません。
因みに、本来の妖怪の朧車は牛車。
石燕の画図では、半透明の牛車の前面の、本来なら簾がかかっている場所に、巨大な夜叉のような顔、もしくは無念の形相をした女の顔を持つ姿で描かれている。解説文では、「むかし賀茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり。 出てみれば異形のもの也。 車争の遺恨にや。」とある[1]。「車争い」とは、平安時代に祭礼の場などで、貴族たちが牛車を見物しやすい場所に移動させようとした際に牛車同士が場所を取り合ったことをいう。
そのことから現代では、朧車とはこの車争いに敗れた貴族の遺恨が妖怪と化したものであり、京都の加茂(現・木津川市)の大路で、朧夜に車の軋る音を耳にした人が家の外に飛び出して見ると、異形の妖怪・朧車がそこにいた、と解釈されている。朧という言葉の通り、手で触れられるようなはっきりした存在感はなく、全体が半透明になっているともいう。
平安中期の物語『源氏物語』において、六条御息所が祭り見物の牛車の場所取り争いで葵に敗れ、その怨念が妖怪と化したという話が、朧車のもとになったという説がある。また中世日本の説話集『宇治拾遺物語』には、ある男が一条桟敷屋で遊女と寝ているとき、賀茂の大路で馬の頭をした鬼が「諸行無常」と詠ずる光景を目撃したという話や、京の都で鬼の行列を見たという話など、百鬼夜行(夜間に様々な妖怪が列をなして闊歩すること)に類する話が多くの古典資料に見られることから、そのような百鬼夜行の類を石燕が「朧車」という妖怪として描いたとの説もある。
ウィキペディア『朧車』より引用
話をもどします。霊柩車で宮型の霊柩車は大阪から生まれたそうです。
(葬列を作るお金の無い)庶民の葬式のためのもので、地域共同体がお金を出し合い、何度でも使える様に中古外車を改造して派手に造った物だそうです。
お金は無いけど殿様気分を味わいたい…そんな“見栄”から生まれたのが、“霊柩車”だった…
全国に普及すると共に、土地柄も現れて、バリエーションが豊かに。
大まかですが、メモ出来た分のみ。(不確か)
東京 …桐作り・ニス塗装、緻密な意匠
関西 …白木造り、シンプルな意匠、車の扉部分まで装飾
中京 …車の扉部分まで装飾(関西と同じく)、屋根の形が高い
北陸 …赤い霊柩車、造りが雪国仕様
といった具合に。
螺鈿細工に蒔絵といった伝統工芸・匠の技を駆使したもの、龍や麒麟の意匠を凝らしたものも。
後半は町田先生が研究されている銭湯と霊柩車の様式の共通項について。
それは“唐破風”。
銭湯の正面と、霊柩車を後部から見た時。独特の湾曲がある破風が目に留まる。
唐破風は安土桃山時代に神社仏閣に使われた建築様式で、それが次第に庶民文化に取り入れられたとの事。
唐破風について『建物編~唐破風~』
霊柩車にこの破風が使われるのは解ると思いますが、何故それが銭湯にも使われるのか。
関東で銭湯に使われるようになったのは、関東大震災後の復興期に“宮大工が自分の技術を活かし、今までにない豪華な銭湯を造ったところ、評判を呼び広がっていった”ため、関西では仏教の布教の一環で、寺で風呂を提供していた事が始まりだそうです。
唐破風は銭湯・霊柩車だけではなく、遊廓にも使われている。
庶民文化に取り入れられた時、宗教・信仰から離れ、“豪華絢爛”の象徴となったためのようです。
霊柩車の内装は凄い。死者以外、見るものが居ないのに…
豪華絢爛な意匠と内装で、この世のものとは思えない世界を造っている。それらの象徴の様な唐破風。
では、それらの共通項は何か。
“極楽浄土への入り口”である。
死後の、異界の、非日常の、入口。
文化の中に、意図してか、していなくても繋がっている意識ではないでしょうか。まるで集合的無意識。
こうした結論の後、少し気になることが。
色への宗教上の禁忌(タブー)意識は無かったのだろうか?
明治期“文明開化”という欧米化の中で、失われていく日本文化もあった。
現在、葬儀・喪というと、黒いイメージがあるが、日本では本来、白だった。(死者の白装束は名残だろうか?)
霊柩車には黒だけでは無く、白や赤もあった。中には金銀まで…
その事を質問してみた所、町田先生は宗教と関わりながらも、切り離されている事を指摘。
霊柩車の歴史からも判るが、宗教上の理由は無く、やはり遺族の見栄らしい。
葬儀とは、誰の為にあるのか。
私の結論から言うと、生者のためのもの。
死者を弔う事は、勿論死者への敬意でもある。
しかし、行うのは生きている人間である。
死者への思いは、生きている人間に良くも悪くも影響を与える。
故人を思い、生きる活力を得る儀式となるように。(という思いもあって欲しい)
そして遺族の見栄。
写真はよねづ工房のカタログから。