映画『JOKER』感想 ――悪とは何か?
半年前に映画館で見たのに、また感想が書けなかった…絶賛消化中……
公式サイト:
http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/
クリストファー・ノーラン監督の『バットマン』以降だろうか、(DCコミックに限らず)アメリカのコミックヒーローの実写版映画が社会派なリアリティ、問題提起を織り込むようになったのは。
それまでは実写映画に当時の社会情勢などを描写することは普通にあると思うが、表面的なアイコン、アイテムとしてが多かった。
しかし、核心にあるものや、ネガティブな一面を抉る描写を表現するようになった。リアリズムの強調、と言うのだろうか。
この映画もまた、例外ではない。
ノーラン版はバットマンを用いて孤独なヒーローの限界(アメリカのマッチョな正義の限界?)を描いた。
この映画は“救えない「悪」”、悪とは何かを描いているように思う。
救えない“社会の底辺”
ジョーカー――〈悪のカリスマ〉はいかに誕生したのか?
この映画を観おわった人は、その原因と対策について考えをめぐらせざるを得なくなるのではないだろうか。
なぜなら、あらゆるものが“ないものづくし”の映画だったから。現実社会でもそうである。
映画『キングスマン』でも言及された“断絶”がある。
真っ先に挙げられる貧富の差。
リベラルな政治家、富豪であってもそれを解消できない。寄付はできても、根本的な解決を促すことを仕事としていないから。
それを救済する“仕組み”はあれど、現場にも問題問題は山積している。
助成金が打ち切られれば、ケースワークの閉めざるを得ない。社会が本当に困っている、助け手を必要としている人を救えない。
宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち-新潮新書』、柏木ハルコ『健康で文化的な最低限度の生活』をも思い出す。
既存の仕組み的なものの限界に、受給している当事者の、貧困、給付を受けているのプレッシャーからのも含め、精神疾患問題など……
映画ではっきりと描かれていなかったが、そのあまりにも多様な問題に、対応する人材が確保できない問題もあるだろう。
アーサーの場合も、仕事の助けもさることながら、心身のケアも必要だった……
これが一番厄介なものだ。
アーサーは発作で大声で笑う。脳障害と判っていても、脳自体が人体の中で一番ブラックボックスであるため、外科的治療が困難……そもそも解明されていない。
メンタルケアも1980年代では認知度がようやく出てきた頃であろうし、必ず目に見えて治癒できたことがわかるものではない。
そういえば、映画終盤にでてくるスタジオのおばあちゃんは、現在90歳でも現役(!)のセックス・セラピスト、ルース・ウエストハイマー女史をモデルにしたキャラクターもいた。
話の展開では無視されアーサーに関われない存在のため、カウンセラーのアドバイスは存在しない、届かない。あったとしてもそれは「女性」に対するものであるから、「男性」であるアーサーは対象外かも知れない。
丁度、映画『おしえて!ドクター・ルース』の日本公開もあった。なんという皮肉……
アーサーが抱える問題――毒親、愛情不足(この2つによる悪影響はアダルトチルドレンという傾向になるだろうか)、精神疾患という三重苦――から、ジョーカーに至る過程に、『黒子のバスケ事件』の「無敵の人」(※1)を思い出した。
今、少し調べるだけでも、それを指摘するブログ等がたくさんあった。
何も持っていない。自暴自棄ではなく、失うものは何もない(何もいらない)からできる暴挙と悪意がある。
それはキルケゴールが『死に至る病』で取り上げた絶望――自分が自分である責任を放棄し、被害妄想的な犯行型のもの――に思える。
同時に、観る人に「本当にそれだけだろうか?」というカタルシスを与える。
“ジョーカー”という悪のキャラクター性
映画公開前に「誰が“ジョーカー”を演じるかで話題になるキャラクターもそういないだろう」と言っている人がいた。
それだけ歴代のキャラクターがインパクトがあった。そして今回もまた然り。
そのキャラクター性が被っていないことも、凄いことだと思う。
歴代ジョーカーは様々な悪の象徴だった。
私はティム・バートン、クリストファー・ノーラン版の『バットマン』のジョーカーしか見たことがないのだが……これらだけでも、ジョーカーのイメージとその変容を垣間見るのに十分だと思う。
「死に至る病、それは絶望である」
キルケゴールの名著は、自己の喪失――自分が自分であるための責任(主体性)を放棄し、常に他人・社会が悪いとすること――を罪とし、糾弾した。ピエロの面を付けた暴徒にそうした側面を見いだすことはできるが、アーサーにはもっと深刻な問題がある。
自分自身の存在を定義するものを、はじめから持っていなかった。
アーサーは、母子家庭と思いきや、彼は養子だった。
そして自分の障害が名前も顔も知らない義父の虐待によるもの(そこから助けてくれなかった母親)だったことが明らかになる。
アーサー/今作のジョーカーは、どこにも繋がりがない、自分が誰かもわからない、誰でもない、何もない、“存在しない”人間だった。
そもそも歴代ジョーカーは、コミック版を含め、個人を表す名前を持っていなかったようだ。例外だったのはバートン版のジョーカー、ジャック・ネイピア。
ノーラン版のジョーカーも、何者なのかわからない人物として描かれていた。ブランドものではない服、大量生産された靴を身につけ、前科者リストにも登録されていない……
小物に至るまでこだわりを持つキャラクターでもあるジョーカーだが、ノーラン版のジョーカーの“こだわり”は、自己顕示ではなく、何者かわからなくする、身をかくすための手段だった。
アーサーは、ノーラン版の何者か分からないミステリアスさよりも、何にも属せない、存在しない哀愁を強く打ち出していた。
ちなみに、今回のジョーカーも衣装や小道具にコミックス版のオマージュが随所にちりばめられている模様。
光の下
興味深いのは光の表現。
アーサーは、貧しいながらも自分ができることを探して、底辺ながらも社会に組み込まれていた間の彼は闇の中――薄暗い楽屋やバー、夜の街――にいた。しかし、地下鉄で3人を殺害した後、暗い構内を抜けた彼を朝の明るい陽の光が照らしている。母親を殺害した後に差し込む日差しからそれは決定的になり、司会者の殺害の際のスタジオの光は、彼がジョークを披露していたバー以上に明るい。
この光の表現が、犯罪を犯すことではじめて社会に繋がれた(社会的に認知された)ことのメタファーにも受け取れる。
罪を犯せば人は暗い世界に堕ちていく、見えなくなって忘れ去られる(社会的な死)イメージがステレオタイプで存在する。それを覆す。
人間は視認動物だし、光が無いと対象を認識することは難しい。
つまり暗い世界にいたアーサーは誰からも認知されなかったことがうかがえる。
アーサー/ジョーカーの存在、彼を社会と繋ぐものは全く無い。
だが、社会から逸脱していることで社会から認知される。
人とのつながり ――親の愛から始まって
大きく言及されていないが、親の愛の必要性とそれが断たれた時の困難さをも垣間見る。
アーサーは、母の手紙を盗み見て、自分が富豪のウェイン(バットマン・ブルースの父)の庶子ではないかと考え、彼に親の愛を乞うが、殴られる。
結論としては違ったのだが……その結果として、自身の謎めいたルーツと障害の原因、母の精神疾患にたどり着く。
唯一の肉親でさえ欺瞞であった事実とその衝撃は大きい。
アーサーはその事実に、遂に他者への怒りがこみあげてくる。(それまで理不尽な暴力、自身の失敗、得られない共感と親や他者からの愛によって悲嘆に暮れていた。)自分自身が無い故に、自分への怒りは向けられない(存在しない)のだろうか?
親との関係性……教育であれ、接し方を誤れば、人格や精神にダメージが大きい事は、凶悪犯罪が起こる度に取り上げられた。
秋葉原通り魔事件の犯人の家庭環境(※2)は大きな反響を呼んだし、 押川剛『「子供を殺してください」という親たち 』およびそのコミカライズを思い出させた。
家族こそ人間として生きて 人間として育てなければいけない
ごくあたりまえのことのはずなのに……原作:押川剛 漫画:鈴木マサカズ『「子供を殺してください」という親たち』
#33:【ケース13】最後の取引③
ヒーローの視線
「罪を憎んで 人を憎まず」の困難さ。
バートン版、ノーラン版共に、バットマンは悪人を成敗することはできても、悪人を救うことができない。
今回のも含め、彼(ら)は両親を目の前で殺され、置き去りにされた少年のまま。
心に傷を負っている。(その点はアーサーと同じなのに、親の愛と庇護を実感していたブルースは異なる道を歩む。)
バットマン――成長したブルース・ウェインも、貧富の差が犯罪の原因で抑止力になるならと慈善活動への投資を惜しまないが、それだけでは悪はなくならない。
これもまた、ヒーローの限界(幻想)を揶揄しているのかもしれない。
ただ、観る人は悪にも片手だけでも、その指の先だけでも差し伸べてくれる人がいたら救われたのではないかという、淡い希望を思うのかも知れない。
- 「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) – Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20140315-00033576/ (2020/6/14確認) - 「秋葉原連続通り魔事件」そして犯人(加藤智大)の弟は自殺した(齋藤 剛) | 現代ビジネス | 講談社
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39034?page=5 (2020/6/14確認)