映画『グリーン・インフェルノ』感想――カール・ホフマン『人喰い』に寄せて
公式サイト:
http://green-inferno.jp/
よくあるゴア・ホラー。
同時に、あらゆる抗議活動に関する冷笑とも受け取る映画だった。
あらすじ
国連に勤務する父を持ち、人権問題に関心がある大学生・ジャスティンが(色んな人権問題?の抗議活動に参加している)活動家・アレハンドロの活動に参加する。
彼らは南米ペルーの未開の熱帯雨林で、地下天然ガスを狙う会社が開拓を始め、原住民・ヤハ族の暮らしが脅かされているのを防くため、現地で開発業者の不正を暴き、ネットで世界に発信することを計画し、現地に赴く。活動は一定の効果を上げるが、そのための過激な抗議活動(パフォーマンス)は問題視され、強制送還されることになる。
しかし、帰路につく彼らが載ったセスナ機にエンジントラブルが起こり、熱帯雨林に墜落してしまう。生き残った学生たちを助けたのはヤハ族だったが、ヤハ族は食人族だった……
考察
自分たちが生活している世界から遠く離れ、言語も文化も異なり、(衛星経由を抜きにして)スマホも使えない密林という場所――異界――を舞台にしたものと言える。
隔絶され、幽閉された状態や迫る危機をどのように対処するかの冒険譚的な要素や、ゴア表現の多様さが“見せ場”だが、ゴア表現と食人シーンがこのホラー映画の恐怖ではない。
怖いのは幽霊や化け物ではなく生きた人間……それも文明人だと自負している人間の悪意だった。
過激な抗議活動の最中、命の危険に晒されるジャスティン。それは国連勤務の父を持つジャスティンが窮地に追い込まれることを撮影し、ネットで公表することで世界から注目されることも目的だった。自分がダシにされている事に気づいたジャスティンはアレハンドロに不信感を募らせる。
赤 ――ヤハ族
映画の宣伝も、恐怖は彼ら食人族のヤハ族であるように見せかける。しかし映画本編でヤハ族の描写は、人間を凌駕する力を持つ圧倒的な自然中での“営み”を強く意識させる描写が多かった。
人体の解体ショーのシーンを抜きにすれば、ヤハ族の人々は、獲物を調理し共同体で分けあう普通の生活描写だった。
白 ――ジャスティン
ホラー映画にはいくつか“お約束”があるが、「処女は死なない」というものがある。
割礼を施されそうになるのも、そのフラグを強調する。それらはジャスティンの“無原罪”、潔白を象徴させる。(赤いペインティングを施すヤハ族の中で白が神聖さを強調する狙いもあると思う。)
川で罪人を地獄に送るという神聖な動物である豹が彼女を襲わなかったことで追跡を止めるヤハ族。実際、彼女は誰も殺していない。
ジャスティンがヤハ族の食人文化を告発しなかったのは、パフォーマンスとは違う活動があることを世の中に示したかったためなのか、ヤハ族とアレハンドロをアマゾンに閉じ込めておきたかったからなのか……
黒 ――アレハンドロ
日常生活の描写を見せられたヤハ族を悪魔的に見るのは少し難しい。しかしアレハンドロは悪意そのものとして映る。
ヤハ族に捕らわれ檻に入れられた学生達が、メンバーのひとりがが喰われるのを目の当たりにし、脱出する方法について検討していると、アレハンドロが衝撃の事実を告白する。活動はただのヤラセで、開発を妨害した企業のライバル会社から多額の報酬を得る約束をしていた。自然保護と現住民族の生活(人権)を守るというのは建前だった。そして3日後にはそのライバル会社がここに到達するであろう事……。
脱出のために男性陣が背に腹は代えられない検討をする中、マスターベーションに耽っていたり、さらにヤハ族の檻から脱出し助けを呼びに行く際、アレハンドロは一緒に残ったラーズを負傷させる。自分が先に食べられないようにするために。こうした行為にアレハンドロが悪意の象徴であることを決定的にする。
アレハンドロだけが最後まで喰われない。字幕ではヤハ族の会話には「神からの贈り物だ!」という言葉以外、字幕が当てられていないのだが、その言葉から鑑みるに、喰われず、ジャスティンのように(されてないが)通過儀礼を受けなかったアレハンドロは神からの贈り物ではない、ということか。
映画冒頭アレハンドロが語る「衛星写真でしか見れない先住民族」が映画中盤から恐怖の対象だった訳だが、それを想起させるように彼自身が衛星写真に写り込んでいる。こちらを睨みつけて。身体は黒い影に覆われているなかで顔が浮かび上がり、その目が白く鋭く光って見える。
におい(臭/匂)
ヤハ族の村で、捕らわれた活動家のメンバーは一人、また一人と喰われていく……
最初の犠牲者が調理されているとき、「匂いがする――友達が調理されてる」と呟く。その字幕は不快な“臭い”という表記ではなく、美味しい、香ばしい事を指す“匂い”であることが興味深い。
その時、あまりの恐怖からか牢に囚われているメンバーの女性は便意を訴え、檻の隅で腹を下してしまう。その音と“臭い”に顔をしかめるメンバーたち。
それをヤハ族の子供たちが嗤い、部族の人々が「臭い、臭い」と自分たちの鼻の前で手を仰ぐジェスチャーをする。
この匂いの対比が立場の逆転を如実に物語る。
だいたい人間が耐えられないほどの悪臭というのは、糞便か遺骸が放つ臭いに大別でき(※1)
るという。
にもかかわらず、食人を行うヤハ族が調理した遺骸のにおいは良い「匂い」で、被害者であり生きている人間の生理現象である排泄が嫌な「臭い」。
ペルーの熱帯雨林の開発現場へ向かう途中立ち寄った、欧米的な設備と衛生管理が行き届いたレストランの描写から、自覚は無くとも自分たちの文化が進んでおり優位であると認識していた彼らは、それが存在しない世界で(文明の進歩から取り残され遅れていると認識し、無自覚に見下していた文化圏で)下賤な存在になってしまう。
映像では伝わらないにおいの表現を、音や周りの人間の感情表現で観客に伝えることも、意図的に仕組んである対比がとても興味深かった。
ロックフェラー失踪事件
この映画を見たいと思ったのは、カール・ホフマン『人喰い』を手に取ったため。
ロックフェラー失踪事件(※2)は、オランダ領ニューギニア(1961年当時)で、当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研究と現地の工芸を収集していたロックフェラーの御曹司・マイケルが消息を絶ち、大規模な捜索を行なわせたが発見出来ず行方不明となった事件。
しかし、当時から一部で「首狩り族に殺され食べられた」と言われていた。
この本は事件の真相を追求するサスペンスではなく、現地のフィールドワークが主体だった。
しかしそれに並行して、当時の報道や証言――うわさ話や現地民の動向などの記録――を調査し、“誰が”という断定はしないものの、マイケルはアスマット族の部族のひとつ、オツジャネップの戦士に食べられた確信を強くする。
第二章の冒頭から、いきなりマイケルがどの様に殺され、解体され食べられたかが描写される――具体的な事実の証言を基にしているというよりは、他の習慣としての証言や記録にある手順を基にしている。
それと『グリーン・インフェルノ』の食人描写はフィクションなので手際が悪く、違和感にしか見えない。大して抵抗もせず四肢をもがれ、ビクビクと動く描写は嘘っぽさを強調していた。(すごい言い方かもしれないが、リアルじゃない故に私はゴア描写を安心して見れる。)
最も、そのフィクション性がゴア表現の醍醐味なのだが。
『人喰い』で描写されたカニバリズムは、宗教的な理由であるためか食べる部位は決まっていて『グリーン・インフェルノ』のように全てを無駄なく食べる訳ではなさそうだった。
カニバリズム
ゴア・ホラーのギミックとして使われるカニバリズム。
食物連鎖の頂点であると認識している人類が、同族に捕食される。蛮行と片付けられない事実が現実社会にはある。
BSE問題から、カニバリズムで人間のプリオン病が発生して部族存続の危機になってしまうのでは?と思ったが、必ずしもそうとは言い難いようだ(※3)……
カニバリズムの動機は大別して飢饉などによる極限の飢餓、性的欲求、究極の美食、そして宗教的理由がある。
『人喰い』では欧米社会とは異なるアスマット族の“宇宙観”から、彼らがそれに基づいてマイケルを“殺ろし、食さねばならなかった”事を指摘する。
アスマット族には、報復による因果応報ともいうべき“円環”の概念があり、オランダ植民地下であった当時、原住民殺害に対する白人への不満と怒りがくすぶっていた。そして部族の通過儀礼として敵を殺す(そしてその遺体を解体、一部を食し、骨は戦利品兼武器にする)習慣があった。これら2つが絡み合い、ある時、偶然その場に居合わせた白人のマイケルに白羽の矢が立った……
それを知らない(自分で知ろうともしなかった)ロックフェラー家の御曹司は、自分が属する欧米社会の価値観をそのまま持ち込む。
金にモノを言わせれば大概の事は解決する、自分に不可能は無いという尊大な思いを胸に、その価値観が通用しない世界に。
マイケルの身に起こった出来事はまるで、自分自身、個人の力でもない金の力に頼る傲慢な御曹司が自業自得で身を滅ぼしているようにも思う。
この自分の所属する価値観の尺度の違い、その本質を知りもせず勝手に近づくことによって身を滅ぼしてゆくところが、『グリーン・インフェルノ』と『人喰い』の恐怖――後味の悪さ――、それは問題提起だった。
抗議活動は何のため?
『グリーン・インフェルノ』の描写で、観光客向けのレストランの前で現地の人達の様子を見た活動家のメンバーの女性は文句を言う。
「シートベルトも無いバイクに子どもを乗せるなんて児童虐待だわ」
現地の事情をよく知らず、自分の文化や生活環境を基準に相手を非難する。そこに見え隠れする優越感――自分は相手の悪しき習慣を是正しに来た正義の人である――という、相手を見下した姿勢がある。
ドキュメンタリー映画『おクジラさま』で、他に産業も少ない大地町の人々と自分たちの価値観を押し付けるだけの捕鯨反対の活動家との討論会のシーンがある。
土地の事情(農作物を作るのに適さない土地、物流も限られ高コストになりかねない)も知らず、ただ「捕鯨は悪だ!反対‼」と叫ぶだけの活動家人々に辟易した大地町の人は言う。「大地町のことは大地町で決める」と。
過激な活動は結局のところ自己顕示欲のパフォーマンスに過ぎないと理解した。
『人喰い』は対照的で、著者は“現地の人々との交流、生活習慣に入り込んで”いった。
著者はその全てを肯定はしないまでも、アスマット族の宇宙観を理解することで、彼らの信頼を得、彼らは事実を語らないまでも、真実に繋がる片鱗が語られる。(さらに著者は当時のニュースや調査資料にも目を通し裏付けをとってもいる)
テロでしかない過激な抗議活動も、現地でもない場所でのデモも、「それは一体“誰(何)”のため?」かと、自問させてくれる映画だった。
- 一条真也『香をたのしむ ―ハートフルフレグランスのすすめ』 現代書林 2010 p.49
- マイケル・ロックフェラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・ロックフェラー - なぜ共食いする生物がいるのか? カニバリズムのメリットとデメリット – ログミーBiz
https://logmi.jp/business/articles/240662