映画『クリムゾン・ピーク』感想
http://crimsonpeakmovie.com/
(↑このサイト、国別のリダイレクト設定の影響で日本から見れなくなってる…… |||orz / 2016/1/8現在)
日本語公式サイト:
http://crimsonpeak.jp/
映画『永遠の子どもたち』、映画『ダーク・フェアリー』以来の屋敷に棲むホラー、何より宣伝で公開された屋敷のヴィジュアルの素晴らしさに感嘆し、期待値が高かった。
そして申し分ない“古典的ゴシック・ホラー”だった!
大分ネタバレあり
屋敷
舞台である屋敷「アラデール・ホール」は、実際にセットとして作り上げたもの(CGではない!)だという。何でも半年かけて作り上げたとか……
まるで生きているような屋敷――
ボロ屋敷で、所々が腐食や劣化を起こしているにもかかわらず、死んだ屋敷ではない。
上水道を水が通る音や、空いた天井から吹き込んでくる空気の音は呼吸をしているかのよう。
床を力を入れて踏みつけると、血肉の様に赤い粘土が滲み出る。
年季の入った品々はただボロいのではなく、人の情念が宿っている存在感を持っている――日本では馴染み深い付喪神の様相をしている。
細かなディティールが屋敷を“生き物”にしている。
過去のギレルモ監督作品に出てくる屋敷には、ゴシック建築様式の物が度々現れるが、同じ趣きのものは存在しないように思う。
屋敷が曰くつきというのは一口で言っても様々なタイプが在るわけだが。
家そのものが狂気である『シャイニング』(映画版は原作小説は異なるけど)、不眠症治療に訪れた屋敷が霊障を起こす銅像なども動き出す『ホーンティング』など。私が最近観たものの中では映画『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』は悪霊が住まうだけでなく、館の外に呪いを撒き散らしていた。
人里離れた場所にある城や屋敷はそれ自体が異界で、秘密があり(犯罪が隠されていたり、悪霊や悪魔が封じられていたり)、何も知らずに訪れた部外者が巻き込まれる……
ギレルモ監督の作品でも怪異が起こる・棲む屋敷が度々登場するが、どの作品の屋敷も微妙にニュアンスが異なるように思える。
それはデザインにも現れている。
今回の、教会建築様式をふんだんに取り入れた屋敷は、狂王ルードヴィッヒの夢の国を顕現させたドイツのノイシュヴァンシュタイン城を――寧ろイギリスのストロベリーヒルの豪華絢爛なゴシック・リヴァイヴァル建築を思い出させた。
異形
「ゴシック・ホラー」で「幽霊が出る」と聞いて、完全に構えていた所を覆されたような気がする……
ハロウィンのクリーチャーがオン・パレードな屋敷を舞台にした、ティム・バートン監督の映画『ダーク・シャドウ』(2012)を観ていたためだろうか……
映画の予告編で古い写真に魅力的な準男爵・トーマス(トム・ヒドルストン)と一緒に写っているの女性たちが異なる事や、トーマスの身なりを見た主人公・イーディス(ミア・ワシコウスカ)がその洞察力で違和感を感じ「着ているものが古い」とこぼすことから、“トーマスと後の義姉・ルシール(ジェシカ・チャステイン)、シャープ姉弟は吸血鬼かそれに類する存在で、実は数百年くらい生きているのでは?”と勝手な想像をしていたのだが、そんな事はなかった。
出てくる人外は幽霊だけで、彼女たちは人間に危害を加える存在ではなかった。
死んだ時の傷跡もそのまま一部骸骨化した姿で黒や赤色をした幽霊たちは、主人公に警告をするために立ち現れる。
その姿はどれも象徴的だった。
黒い色の母の霊は純粋な“死”を強く意識させる。
そして血のイメージに結びつく赤い色のアラデール・ホールの霊達は“殺人”を強調する。
イーディスの夢の中で、曇天のもと荒涼とした草原に佇みながらある方向を指差す赤い幽霊の姿は、そのコントラストからシュルレアリスムの絵画のよう。
また別の時、屋敷の吹き抜け状のホールの中空に浮かび赤子を抱いている幽霊の姿は、教会建築様式の空間にあって聖母のようだった。
人間
幽霊よりも怖ろしいのは、人間だった――
シャープ姉弟が吸血鬼(あるいはそれに類する存在)という勝手な想像から、イーディスとルシールの関係は『吸血鬼カーミラ』のようなレズビアンな雰囲気と思いきや、『嵐が丘』を彷彿させる愛憎劇だった。(これらゴシック小説に影響を受けたことを、ギレルモ監督は公言している。)
トーマスもといシャープ姉弟の目的は、自身の家の粘土鉱山の採掘資金を集めるために、身寄りの無い資産のある女性の財産を巻き上げる結婚詐欺だった。
それは19世紀にあった“ジョージ・ジョゼフ・スミス事件(※)”をも思い出させた。
過去(と未来)
「アラデール・ホール」は“執着”によって人間を、更には幽霊も束縛していた。
アラデール・ホールに住まうシャープ姉弟は古く朽ち始めている屋敷に固執している。
それは家名などの表面的なものや社会的なものよりも、トラウマ(凄惨な過去)に、という印象を受けた。
『サイコ』や『レッド・ドラゴン』のようにトラウマがモノローグや幻覚で描写されることは無く、シャープ姉弟の口から簡潔に語られるに留まる。(因みに、小説版には25年前のエピソードとして、シャープ家の家族関係を垣間見る描写が少しだけ記載されている)
それを聞いた故にイーディスは、同情だろうか自身を殺そうとしたルシールの事も憎みきれなかったのではないだろうか……
過去のトラウマを直視し克服すること、つまり暗い過去に囚われない事が、 真に人を豊かにする事であると――
つまり未来志向だ。アドラー心理学でも、実は古くからある仏教やキリスト教ですらその事を既に示している。
未来志向と過去志向の対比は、昼と夜、蝶と蛾、そしてイーディスとルシールの対比をもって、何重にも表現されていた。
昼に舞う蝶と夜に生きる蛾。一般的な印象から対照的ではあるものの、生物学上でも厳密な差が見いだせないという昆虫が、イーディスとルシールを象徴する。 映画『Mama』でも異界のものの象徴だった蛾は、蝶が加わる事でより鮮明になっていた。
余談だが、屋敷にいた犬(実は赤い幽霊の一人の飼い犬だった)の犬種は“パピヨン(蝶)”。犬は社会的なものの象徴のように語られる事が多いが、ここでは犬種ゆえに猫のような霊的存在、イーディスや結婚詐欺の犠牲者達の象徴として現れている。
二人が対象的な世界に生きており、似て非なるものであることを明確にする。
それ故にルシールはイーディスを殺すこと、すなわち「アラデール・ホール」の暗い、夜闇の世界に沈める事ができない。
そしてイーディスはルシールを救うこと、「アラデール・ホール」を手放させ、明るい世界に連れ出すこと、生かす事ができなかった。
また、イーディスの場合、幼なじみの眼科医・アラン(チャーリー・ハナム)の存在も大きいだろう。
彼の存在がイーディスを昼の世界に留める絆であったことは言うまでもない。それは『オペラ座の怪人』の若手女優・クリスティーヌとその恋人・ラウル子爵の関係そのままだ。
女の力
そういえば、ここでもまたギレルモ監督作品に多い“女性の魔力”が現れていた。
思えば映画の冒頭から、幽霊ものの小説を書こうとすると男性編集者から否定され、社会進出を阻まれるというエピソードがあった……(男性が阻む女性の社会進出については、ここでは割愛)
男社会の現実世界で女性の力は抑圧されてしまっていたが、幽霊の出る“異界”では、彼女たちの力は圧倒する。
その力は生きるための活力を喚起したり、悪意を退けたり、時に全てを飲み込み死に至らしめる――
映画『ダーク・フェアリー』、映画『Mama』の感想でも書いたが、“異界”に関わるのが女子供だけで、彼らはそこで力を発揮する。そして男性は“異界”に直接関われず、関わってしまっても力が及ばない。
『クリムゾン・ピーク』のアランは重症を負ってで動けなかったし、トーマスはルシールの絶望と怒りを浄化することも出来なかった……
男性が無力という意味ではない。男性の力の性質とは異なる、女性の力の話だ。
ギレルモ監督のゴシック作品に対する深い造詣が垣間見れた。
それは映画に限らず、文学やその時代背景にあるものにも及んでいると思う。
『クリムゾン・ピーク』はあらゆるゴシック作品を彷彿させながら、独自の世界観にまとめあげている。
王道でありながら、飽きさせない。
バランス感覚を保った良い映画だった。
役者語り
いや…言うまでもないのだが……
映画『パシフィック・リム』からの、チャーリー・ハナムとバーン・ゴーマン(『パシフィック・リム』では気難しい数理学者)が出演していて、思わず笑みがこぼれる。
バーン・ゴーマンは今度は鋭い雰囲気を纏っていて、良い俳優だと思った。
参考文献
映画『クリムゾン・ピーク』パンフレット
マーク・ソールズベリー『ギレルモ・デル・トロ クリムゾン・ピーク アート・オブ・ダークネス』2016
- 花嫁を保険金目当てに浴槽で殺害していた(複数の偽名を使って7人もの女性と婚姻関係にあったので結婚詐欺でもある)事件。
エリック・R・ワトソン『謀殺―ジョージ・ジョゼフ・スミス事件』(旺文社文庫―実録裁判) 梅田 昌志郎訳 1981(絶版)
牧 逸馬『浴槽の花嫁』(青空文庫) http://www.aozora.gr.jp/cards/000304/card1877.html