舞台『不生不滅』感想
劇団サイト:『音楽劇団 熊谷組』
http://members2.jcom.home.ne.jp/asaki-kikaku/kumatop.htm
お誘いを受け、新作和物オペラを観に行く。
以前聞きに行った講演『グローバルビジネスに役立つオペラの素養と楽しみ方』で、日本オペラなるものについての話を聞いた。
それに通じるもの、考える布石として。
和奏
全編和楽器による演奏とあったので、オーケストラに和楽器が取り入れられていると想像していたが、和楽器のみの演奏だった。
日本にとっては伝統的な響きを、西洋の様式であるオペラに取り入れる…音のためかリズムなのか、最初は違和感を覚えたが、それは慣れの問題かもしれない。
私は音楽知識は疎いので、どの様な試みがされているのかは解らなかった……
“オペラに取り入れられた日本なるもの”にプッチーニ『蝶々夫人』の事を思い出された。
これは似て非なるものだが。
『蝶々夫人』では、リアルな異国情緒を表現するために、日本歌謡の旋律(〈さくら さくら〉〈君が代〉〈お江戸日本橋〉〈宮さん宮さん〉など)が複数盛り込まれている。(何とマニアック!)
参考:『オペラ「蝶々夫人」で用いられた日本の音楽』
http://kcpo.jp/info/butterfly/melody.html
『蝶々夫人』にはヨーロッパの旋律に馴染むように日本歌謡が織り込まれているが、このオペラは日本のリズムでオペラをしているのかもしれない。
歌舞伎や能では、舞台上奥に奏楽隊がいるが、この舞台では舞台の下、観客席の最前列の前にラグが敷かれ、そこで演奏していた。
ラグのエリアがオーケストラピットという事か。
そのため、効果音の出し方が観ていて解るようになっていた。
歌舞伎などで使われる、波ざると言ったか……渋紙を張った行李状(こうりじょう)の中に小豆を入れて揺するのと同じようなものを動かしていた。
舞
オペラの形式に囚われず、様々な舞踊・舞踏が盛り込まれていた。
西洋のバレエ、東洋のベリーダンス、そして日本なるもの能や盆踊りまで。
それぞれの舞踊・舞踏の動きには“役”があった。
バレエは自然現象や聖霊のようなものか。
振り袖を着て舞っているバレエは驚いた。
もちろん、踊りやすくしているのだろうが。
ベリーダンスは人に恵をもたらす神格、能は人を破滅させる妖怪であり、対の概念を持っているように感じられた。
そして人間は庶民的な盆踊りの動きをする。
物語
舞台は三途(みいず)の里と呼ばれる集落。
その地に「殿さまや帝を凌ぐ、真実の王が出る」との噂が出回り、「王」を求めて、都からある者らがやって来る――
あらすじは何といえば良いのか……
不覚にも、物語の内容に若干、消化不良を起こしてしまう……
私は人間の一生と、仏教の教えをリンクさせた作品と解釈する。
花祭の場面で、盆踊りの動きがはじまるので驚く。
はて?花まつりで円陣を組んで踊ったりしただろうか?
そう思い、花まつりと盆踊りについて調べる。
もともとは、インドで行われていた農耕儀礼が仏教の夏安居の修行の終わる日に寺院で営まれる僧自恣の日と習合したものとされています。 日本でも盆行事の歴史は古く、正月とならぶ二大行事として営まれてきました。『日本書紀』によると推古天皇十四年(606年)に 「この年より初めて寺ごとに、4月8日、7月15日に設斉(おがみ)す」とあります。4月8日は灌仏会(花まつり)のことです。
『お盆について教えて下さい』
http://www.zuiganji.com/qa-obon.html
ここで花まつりと盆踊りがリンクする。
ブッダの生誕と先祖供養。生と死という対極を想起させた。
タイトルの『不生不滅』とは人が生まれ、業(カルマ、善行も悪行も全て)があり、死ぬ事だったのだろうか?
私は舞台を観ていて、中心となる人物が居ないように思えた。
多くの人間の業が、四季の移ろいの中で起こっている。ただそれだけの話しのように思う。
主人公は鯉太郎という、三股をかけていた男だった様だが……
涅槃図が鯉太郎の臨終に置き換わるという。
勝 国彰展の時のも言及した帝釈天と阿修羅の戦いは、一人の男を巡って争う女達の業に。
ただ、涅槃図の解釈がそのまま物語の人間関係に反映される訳では無さそうだ。
それとは関係なく巡る宇宙観――輪廻転生を移ろう四季によって表現されるのだろうか?
それにしては梅が咲く2月頃から初夏までの話で、再び季節は巡って来ない……
物語で言及される王とは何だったのか?
王とは仏を指すようだが、「死ねば仏になる」という言葉に掛かるのか?
悟りとは輪廻からの解脱ではなかったか?
そもそも輪廻は語られていないのか?
この物語は日本独特の仏教哲学だと思う。
そもそも大陸・半島を経由したため、インド仏教とは大分異なるものになっている。
日本仏教が先祖供養と深く結び付いている事からも……
この物語の冒頭では、「王」を求めてやって来た人間がふとした事からこの集落に仏教を広める。
その一連の流れに、仏教哲学や宇宙観を、日常生活に落とし込んでいるようにも思えた。
あるいは、宇宙観自体が日常生活、生の営みそのものという事を現しているのだろうか?
生滅のくり返しが『不生不滅』という事か?
壮大な世界観の一部分のようで、私には掴みきれなかった。