闘牛批判考
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』5巻でも取り上げられていた。闘牛において、避けて通れぬ問題だ。
因みに5巻で闘牛批判のパフォーマンス(銛を打たれ斃れた雄牛を人に見立てたもの)は下記URLのものが元のようだ。
下記はペルーでの闘牛反対運動。
Adventures in Peruvia"Bullfighting… sort of"
https://aliinperu.wordpress.com/2009/11/14/bullfighting-sort-of/
闘牛を調べる程に、その二面性を強く意識させられる。
良し悪しではなく、人間の尺度で生きることを測った際に見るジレンマだ。
それを考える事自体、人間の盲目を顕しているだけかも知れない。
下記は以前書いた、『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――スペイン闘牛を日本人の私が見ての補強板みたいなもの。
私はここで、闘牛を“様式美を追求した屠殺”と解釈して考えている。
何故ならスペインの“闘牛”は"Corrida de toro(牛の走り)"であり、"Bullfight"の意味は無いのだ。
つまり、「闘牛」も"Bullfight"も、誤訳ではなかろうか。
スペイン語で"fight"に相当するものは"lucha"だった。
闘牛批判
闘牛批判で気になるのは「牛が可哀想」という言葉だ。
闘牛の牛は元々、食肉用の牛だ。
食肉の牛は屠殺しなければ食べられないのに、そう言うことに、人間の欺瞞を突き付けられている気がしてならないのだ。
私が闘牛の本を読んで考えた闘牛批判の原因は、牛と人が勝敗を競って闘うものだと思うためではないか、だった。
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』3巻でデビュー戦で意気込むチカが同居人で付き人であるセチュに向かって「私、今日は勝ちに行くから」と決意表明をすると、セチュは怪訝な顔をする。「…は?勝つ?何に?牛に?」
また、スペイン・セビリアに銅像が立つ闘牛士・マノロ・バスケスの言葉は闘牛士と牛の関係を的確に表わしていた。
「牛は闘牛士にとって、敵ではなく協力者だ。ひとつのアートを実現するための協力者。あるいはこう言えばいいのかも知れない。牛は、マタドールが自分の芸術的エモーションを表現するためのメディアなのだ」
闘牛は牛と人が対峙しているが、殺し合うのではなく、牛が人にた斃されるのが前提だ。
実際に牛と闘牛士は勝敗を競う闘いをしておらず、それは八百長という意味ではない。
屠殺を人と牛が闘っているように‘見立てて’いる事が、闘牛の始まりだったのではないだろうか。
闘牛の歴史
ミノタウルス退治に見るローマ起源説ではありえないという。
むしろイベリア半島の屠殺に関わる民族の、その技術を披露する事と民衆のうさ晴らしを兼ねたものが、その原型であった可能性があるようだ。
それが貴族の馬術披露や騎士道への敬意を示す行事と結び付いたり(この名残が馬上闘牛士・ピカドール)、文学などのインテリジェンスと結び付いた時に闘牛士の権威付けとしてローマ時代の剣闘士や供儀と結び付いたという。
「闘牛批判は、流れる血を問題にしているのであって、殺した後の肉はこの限りではない」という指摘の的確さに驚かされた。
闘牛を批判するのであれば、それは牛を殺す事だけでなく、その肉がどの様に扱われたかを含めて批判すべきなのかと考えてしまう。
Bullfighting(Wikipedia)
屠殺のタブー意識
ただ、それを考えると“タブー”に触れる事になる。
屠殺した後の食肉の行方だ。
インターネットでは調べきれなかった。
闘牛場を経たものにしても、屠殺場を経たものにしても、解体された牛の肉を現代人が100%消費できているとは思えない。
そしてそれを批判しづらいのは、日常のシステムの目に見えないところにそれが組み込まれているからではなかろうか?
フランス人著者による闘牛批判の本、エリック・バラテ エリザベトアルドゥアン=フュジエ『闘牛への招待』は、闘牛で雄牛に打ち込まれる銛の数や即死させない点などを挙げてその残酷性を強調していた。
しかし闘牛と屠殺の苦痛を比較する事は、私にはできない。
そもそも計る事なのか?どちらが重いか軽いか、かかる時間の問題なのかなど――
屠殺はあけすけに見せるものではない事は事実だ。
臭いも凄いし、衛生面の配慮がある。
闘牛はそれを目に見える、見易い形に演出されたものであることは確かだろう。それは人間(というより、都市部の人間や現代人)が忘れている生き物を殺して食すという面を明らかにしていると私は思う。
「死もまた生の一部と思うんです。食肉用の牛として工場のようなところで嫌々死んでいくよりも、いい演技をして殺される方が動物に対する愛情だと考えるんです」
これが日本人闘牛士下山敦弘の殺戮者としての理論武装。人類がつくりあげてきた文化は、矛盾と犠牲の集積だ。
佐伯 泰英『闘牛はなぜ殺されるか』 (新潮選書)
日本人闘牛士の言葉は、日本の「いただきます」に込められた精神も合わせて、闘牛を考えていた。
勿論、 闘牛はただの屠殺では無いのだが。
前述の歴史的背景や経緯により、様々な‘見立て’や解釈がある。
生と死の遊戯、一過性故の衝動、闘牛士がカポーテを振る技に惹かれるものがあったり――
それらに美学があるのも事実だ。
闘牛の本場であるスペインにおいてこそ、この賛否両論のせめぎあいが今も昔もいちばん激しかったといった事情も報告されれいる。それは考えてみれば当然のことなのだが、ありきたりなスペイン観や闘牛観においては案外見過ごされているところだろう。明らかに闘牛は人間に考えるべき題材をたくさん提供してくれる興味深いスペクタクルなのである。
旦 敬介
(『闘牛への招待』より引用)
ボルジア家がローマで政権争いをしていた時代には、イタリアへ闘牛が輸入されたこともあったようだが、「残酷である」という理由から定着しなかったようだ。
何故スペインには闘牛、屠殺の現場を直視する価値観が残ったのかは、極東の島国の本の中から見いだせなかった。
番外編:食肉、屠殺は罪ではない
屠殺と絡めて書いたが、私は屠殺は必要な事だと考えている。
屠殺を嫌悪しビーカンに食生活を変える方もいらっしゃるが、私はその事も肯定的に捉えている。
最近読んだ本で、ちょっと忘れがちな視点を取り戻す文章に出会った。
「他の何者かに食べられるなら全然悔しくないけど、人間だけは嫌だ!」
「人間は獲るだけとって残して捨てるから、人間だけには食べられたくない」
動物たちは食べられることに関して決して嫌がっている訳ではないこと、食物連鎖から逸脱してしまった人間は、その知性と、優しさをもって生態系の円滑な循環を維持しなければならないことを意識させられた。
今回調べて、闘牛に関しては私なりに疑問や批判的に思うものもあった。
闘牛の世界観における保守的な支配意識、すなわち男性原理すぎることだ。今は女闘牛士もいるが差別意識があること、自然を人間が支配するという思想が根底にあることだ。そしてその“男の戦い”でないと「闘牛らしくない」のだという。
話は飛躍してしまうが、女闘牛士の存在はそこに新たな価値を、時代に合ったものを見出すものになるのではないかと想像してしまう。
それを考えるには私の蓄積されているものが少なすぎるので、まだ何も書けない。