『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――ミノタウロス
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』4巻が発売されて、案の定、感銘を受けたので考察のような感想をしたためようと思った。
闘牛が持つ迷宮神話の系譜についてだが、コミックのネタバレ込み
死んだ闘牛士、フランチェスコが“ミノタウロス”になっていた。
それは物語の初めからあり、この巻で明るみに出た、というのが正しいだろう。
度々書いているが、迷宮神話のミノタウロスは“死”や“トラウマ”を象徴する。
そして闘牛の牛はミノタウロスと喩えられる。
例えば、フランチェスコに死をもたらした点で言わずもがな。
『Golondrina-ゴロンドリーナ-』2巻では、明け方に牛と対峙したチカが、己の暗い過去を暴かれている。
【過去日記】『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話 ――『ミノタウロス退治』と“生きる”事
牛によってもたらされたフランチェスコの“死”は、関わった人間たちの“トラウマ”になっている。
それを強く意識させるように、フランチェスコの芸名は「死神」であったという。
漠然とながら存在していた、フランチェスコの影が現れる。
観客にはゴシップのようなもので、良い闘牛をした闘牛士が死闘の末に絶命した悲劇として 。
ヴィセンテはその場を見ていたので、フランチェスコが生と死の境界に立っていることに畏怖の念を抱く。それは彼の闘牛のスタイルの理由になっているようだった。
各々の形でフランチェスコという“ミノタウロス”を抱えている。
チカの誕生日はフランチェスコの命日であること。
そしてヴィセンテ・ガジョの父親がファン・ペドロ・ガジョではなく、フランチェスコだった。
フランチェスコのライバルであったファン・ペドロの暗い影を浮き彫りにする。
「あいつはもうどこにもいないのに」事実を淡々と指摘するアントニオ。
その後ろの壁に掛けられた写真の中のフランチェスコが、ファン・ペドロの顔を覗き込むような、睨みつけるような構図になっている――
それは心の中を見透かすような、或いは責めるように思えた。
激情に駆られたペドロが、フランチェスコの写真にワインのボトルを叩き付ける。流れるそれは流血の様だ。
フランチェスコという“ミノタウロス”(トラウマ)をいかにして斃す(克服する)のか。
ガジョの家名とフランチェスコの血筋に苦悩していたヴィセンテは、闘牛場で自分自身を肯定する。
ヴィセンテは脊髄損傷をしながらも一命を取り留め、フランチェスコのようにはならなかった。
かつて彼がチカに「生きる場所」と言った場所に立てなくなった彼は、生きる道を探さなければならない。
そしてチカも“ミノタウロス”に対峙しなければならない。
牛に突き上げられ、負傷した際の恐怖と、ヴィセンテが闘牛ができなくなった衝撃から。
何より、「死ぬために闘牛場に立つ」という思いに。
そのための布石はいくつかあった。
フランチェスコの死を「ただの事故」と言い、「命をかけることと、命を無駄にすることは違う」と指摘するルナ・サンチェスの言葉。
チカはそれに自問する。
その答えが出て“生と死の境目”に立てるのかも知れない。
3月に行われたサイン会にも行ってきた。
ヴィセンテのポラロイド風イラスト、闘牛のチケットレプリカそしてペーパーコミックを参加のおみやげに頂けた。