映画『ブランカニエベス』感想

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映画『ブランカニエベス(BLANCANIEVES)』

公式サイト:
http://blancanieves-espacesarou.com/

映画の前にイベント。
ベニート・ガルシア氏と黒須信江氏によるフラメンコショー。
劇中に使われた曲をフラメンコギターの生演奏と共に。
会場を揺るがす振動が伝わり、力が大地より沸き上がって来るようだった。
これがフラメンコの魅力……
ベニート・ガルシア フラメンコスタジオ
http://www.benitogarcia.jp/

『パンズ・ラビリンス』で重要な役を演じていた、マリベル・ベルトゥが継母エンカルナ役という…対極的な役をこなした彼女にも喝采。
宣伝のチラシやプログラムの挿絵にGolondrina-ゴロンドリーナ-のえすとえむ氏のイラストレーションが寄せられていた事に納得してしまう。

今回は映画の感想と言うよりも、考察寄り。
!ネタバレ満載!

モノクロームの中でもスペインの強い光を感じる。
そして観る者は色彩と音を想起する。
春祭りのフラメンコバラと闘牛牛という、言わずもがな“スペイン的なるもの”が力強く華やかに描かれる。
幼いカルメン(後のブランカニエベス)のフラメンコの手の動き(ブラソ)が観ていて微笑ましい。とても綺麗だ。
エンカルナも時代を反映するような、マリアノ・フォルチュニイ風のコルセットなしのドレスなどを着こなしていて、目を楽しませてくれる。

観ていると、表現が幻想的ではあるものの、現実のスペインの風景にファンタジー映画?と疑問さえ覚える。
白雪姫』のイメージは甘口版でも残酷版でも、白雪姫は息を吹き返し継母/魔女を斃すため、『小公女』のような展開になる事を予想してしまう。

しかし、そうはならない。
白雪姫』はモティーフであり、この物語そのものでは無かった。

それを示唆するように『ブランカニエベス』では小人の人数が1人足りない。
何より、白雪姫が目覚めるきっかけになる“王子”がいないのだ。
この欠落により、ブランカニエベスは目覚める事が出来なかった。

小人の1人は溺れたブランカニエベスを人工呼吸(キス?)で助けるが同じ奇跡は起こらない。
或いは、小人という配役であるが故に白雪姫を目覚めさせる事が出来なかった。

購入したプログラムに寄稿されていた、北小路隆志氏による『魔法の映画/円環の映画』が興味深かった。
映画の冒頭とクライマックスの舞台、そして出てくる小道具やフラメンコ、闘牛の動きから、円形――円環の映画であること、その円形を損なう不吉さをを指摘していた。

円環、という単語に北守『魔法少女 まどか☆マギカ』の考察を思い出した。
円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論
https://hokusyu.hatenablog.com/entries/2013/12/08
上記考察も踏まえると、『ブランカニエベス』の欠けた円は正円に至る予感も確かに秘めている。
事実、彼女は苦境(欠落した正円)に立たされながらも、周囲の庇護や助力により幸福な状態(正円)を手に入れている。
だから死んだブランカニエベスを観ても――白雪姫/茨姫の目覚めを予感したくなる。

だが、王子の不在という決定的な欠落が、物語に終止符を打っている。
そのためブランカニエベスの死をきっかけに、正円が欠けたイメージが固定されてしまう。
欠けた林檎や、雄牛の角(三日月形と判断した際に欠けた正円であり、刃物のようである)はその象徴であり――死を臭わせる凶器だ。

継母が闘牛に斃されるのは必然だった。
度々考えている事だが、闘牛がミノタウロス神話の系譜を汲んでいると解釈した時、牛は対峙する人間の暗部と死を象徴する。
それを斃す術を持っている闘牛士を殺した継母は、対抗する術を持たないのだから。
【過去日記】『Golondrina-ゴロンドリーナ-』に見る神話――『ミノタウロス退治』と“生きる”事

世界は一転し、ダークファンタジーの色彩を帯びていく。
陽気な巡業をしていた小人達は定住(停止/終止符)し、見世物小屋を開いている。
白雪姫の遺骸は観客の前に曳き出され、「1人10セントで茨姫を目覚めさせる奇跡を起こす」見世物となっていた。
それまでとは全く違う、退廃的な、死体愛好や同性愛といったファンタジーがちらつく。
モノトーン映画であるが故に『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)(ドイツ表現主義の映画。不安の感情などを表現している。)なども思い出してしまう。

最後の涙は、ブランカニエベスの涙か、その数奇な運命に心を傷めた観客の涙だろうか?

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