映画『ニーチェの馬』感想
公式サイト:
http://bitters.co.jp/uma/
ここまで究極にそぎ落とされた“生きるということ”に戦慄する。
友人からも凄いと薦められていたものをようやく観た。
俳優も配役も、台詞も舞台さえも、極限までにそぎ落とされた演出。
そこに明示されているのは“ただ生きる”という事だけだった。
朝、起きて食事をし、
昼、食事を得るための労働をし、
夜、明日のために食事をする。
単純な展開だ。貧しい老人とその娘の、生活。
しかしその単純な展開が飽きない。
アングルが微妙に異なったり、同じアングルでありながら微妙な差異があるように仕掛けられている。それが変化とも違和感とも取れる。
全編モノクロだが古臭くない。どちらかというと現代アート写真を思わせる。
印象的な白黒の世界。
反キリスト教、ニヒリズムの哲学者・ニーチェのエピソードに端を発する。
1889年トリノでニーチェは御者に鞭打たれる馬を見て、その首を抱きしめながら泣き崩れ、そのまま発狂した……
その馬はその後、どうなったのか?それを追うように物語が始まる。
それはニーチェを象徴する「神は死んだ」のフレーズを体現したような映画だ。
神が死んだ――神のいない世界だった。
老人とその娘の家の中には欧州的なキリスト教やユダヤ教を直接思わせるものが一切ない。
そして特定の民俗、国、文化を思わせるものも一切ない。
価値を見出している学問も娯楽も一切ない。
2人以外にも登場人物が現れる。酒飲みの金持ち、旅芸人たちがいる。
彼らは観ている私たちに近い存在のようだが、映画の中では「強欲な成金」と「姦しい悪魔」のように見えてくる。否定的な存在として現れる。
老人と娘は人生を楽しんだり、悲観したり、呪いもしない。淡々と生きている。
それは即ち、観ているものは己が信じるもの――神も、アイデンティティも全て否定されてしまう。
ただ、キリスト教(ユダヤ教)を意識させるものがある。
ニーチェが“反キリスト教”であるが故に。
全編が6日で区切られ、日を追う毎に資源、水、火、食料が枯渇してゆく。
最後の日に火が失われ闇に沈むのは、聖書の逸話を退行している事を示唆しているようだ。神が第一日目に「光あれ」と言い顕現した事を思うと――
更に外はずっと強風が吹き荒れる。
不安を煽るような嵐は、まるで静かな黙示録のようだった。
戦争や、SF映画のような直接的な終焉や、あるいはハルマゲドンではない。その予感のような嵐。
妙な緊張感があった。
最後の日、火を失い、煮る事も出来なくなった生の芋にかぶり付く老人。
その前に座る娘は沈黙している。
‘悪事と恥の続く限り、沈黙こそが我が幸い’とはミケランジェロの墓石に刻まれた言葉だったか。彼女は死に限りなく近くなっている。
「食わねばならぬ」
そう老人は言う。
それは生への執念だろうか。あるいは義務だろうか。
ただ、生きる――いずれ死ぬとしても。
その姿を突き付けられた。