『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』感想及び考察

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 ようやく観に行って来ました。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
で、その感想。
観たばかりなので、いつも以上に粗削りな感想である事は断っておきます。

EVANGELION 2.0

先ず、“序破急”の通り全てが“破”でした。

10年前のTVシリーズを踏襲しつつ、全く違う物語になってゆく――
観る以前から、キャラクターの性格が変わってきているという指摘の声を、ちらと聞いていましたが、その通り。

シンジは相変わらず捻くれていますが、色々と考えるようになっている。

レイは包容力はそのままに、能動的に動くようになった。

アスカは排他的ではあるものの、以前のように自身を“天才”とは言わず、“努力家”の面を全面に出している。

ミサトは旧作以上に“シンジの保護者”的な立場が強くなっているように思えた。

マリというキャラクターは、シンジや他のキャラクターの視点を写し出すと同時に、違う視点を見せる存在だった。

シンジは旧作と比べて“成長”したように思える。
“自分に出来ること”をするようになった。
それは料理を作る事ではあるのだが、それが周りのヒトに影響を与えている。
また、“料理を作る”という事は非常に重要な事だ。
衣・食・住は文明の根底にあるものだし、食べることは生きるために必要な事。
それに関わる“料理”について描かれる事は重要だと思う。

現実問題、食糧自給率が4割となり、食育が見直される昨今を考えると、時代を反映した描写と言える。

ヱヴァに乗っての戦闘は、物語の重要な位置を占めていないように思われました。
勿論、使徒は倒さなければならない悲しい存在である事は変わらないのですが。
使徒は旧作までの他者との対立・拒絶の象徴にも見えるし、それ以外のものを示唆しているようにも思える――
そして形が一新されたデザインに圧倒された。

それよりも重点的に描かれるのが、“人の日常の風景”
朝、陽が上り、動きだす街。出勤・通学する人々。
シンジの学生生活。
楽しみな昼食や休み時間。
何だか“学園もの”のような展開に、旧作を見て知っていると呆気にとられてしまう。

しかしそれらを“破壊”ような戦闘シーンや旧作とは異なる展開。
しかしメリハリがあると言うよりは、怒濤の展開で過ぎ去って行く。余韻が無いのだ。
苦悩や心情の変化についての描写が、無い。

終盤の“最強の使徒”との戦いは、殆ど怒りという感情だった。
失ったものを認識し、それ故に失いたくないという感情に駆られた…
それはTVシリーズ第拾九話『男の戦い』と同じような展開だが、初号機の“母性”が引き金となった暴走が『破』ではジンジ個人の“怒り”が起因している事が興味深かった。失った左腕復元の仕方もTVシリーズとは異なるし…
レイは、シンジのアニマになったように思えた。

あ、後、色々とオマージュも多かった。挿入歌とか、音楽が。

続きにネタバレ含む考察。


 ここからはネタバレを含みます!!

『破』考察
キャラクター・キーワード毎に分けて考察。

碇シンジ

前述したように、シンジは次第に変わってゆく。“大人になってゆく”と言っても過言では無いと思う。
自分に出来る事を自然に行い、それが自然に周囲に影響を与えてゆく。
彼が社会に与える影響の一端だと思う。
それと同時に、他人(レイやアスカ)を旧作以上に気にかけるようになっていた。他人に眼を向けるようになっていることは、進歩だと思う。
しかし、それ以上に苦悩する、父との関係。
TVシリーズでは彼個人の私物であったカセットウォークマン。それが父からのお下がりという設定になり、同時に“父との繋がり”を象徴するものとなっていた。それはレイがゲンドウの割れた眼鏡を大切にしているのと同じ動機。現実逃避、隔離のために耳を塞ぐ役割を担っている事は相変わらずだが。
物語中盤でこのウォークマンが壊れるのは象徴的だとも思える。
(原因はマリにあるが)父との繋がり、呪縛を絶つ布石にも思えた。

そして彼の怒り。
バルディエルによる三号機侵食を受け、殲滅目標となってしまった参号機との戦闘の拒否、ダミーシステムによる理不尽な殲滅。今回はそれを直視してはいないものの、音や振動を通して参号機に搭乗しているアスカが傷ついた事を理解する。その後の駄々をこねるような行動には苦笑してしまったが、少年らしい一面だった。
怒りから起因してヱヴァを降りるが、“最強の使徒”ゼルエルによるジオフロントの破壊を目の当たりにし、“失いたくない”という思い、“怒り”から再び自分の意志でヱヴァに乗る。その怒りに呼応するようにヱヴァは暴走し、捕食ではなくゼルエルに喰われたレイを奪還する。

綾波レイ

『序』におけるラミエル戦の後、レイの中に変化が生じた。
旧作からの“包容力”はそのままに、一人の“女性”“人間”となってゆく。
シンジが作った味噌汁を口にするレイ。それはまるで、命を得るかのように見えた。
おそらく薬でのみ栄養を摂っていたレイが、食べ物を食べる。
味噌汁、吸い物はどんなに体調を崩し、食べ物が食べられない状態になっても自然と嚥下でき、滋養に繋がる。そして命を繋ぐものとなる。
『序』まで生活感が無かったレイが、料理を作る。次第に、人間になってゆくような――
シンジの手料理に影響され、彼女なりに“自分に出来る事”をしようとする。
シンジとゲンドウの仲を取り持つきっかけになろうとする。母親的な一面をふと、表す。

ゼルエルに零号機ごと捕食・同化されたレイ。しかし、シンジが必死に彼女を取り戻そうとする姿に、触発されるように手を伸ばし、初号機と同化してゆく。それはまるで、初号機の魂として宿るように見えた。
つまり、初号機の、シンジのアニマとなったのではあるまいか?

笑いとして、海上施設の洗浄過程で、無表情に消毒液の中に漂う彼女が、ブログパーツの“ぷかレイ”を思い出させた。

式波・アスカ・ラングレー

ようやく登場、もう一人のヒロイン。
努力家である面が非常に強く現れていた。そして彼女のトラウマの象徴であったラガディアン人形がマペット人形に変わっていた事が興味深い。投影の象徴のようなラガディアン人形より、マペット人形の方が“あやつり人形”的な印象が強い。何故、この人形にしたのだろうか?

今まで孤独に生きてきたと自負する彼女は、サハクィエルとの戦闘で“一人では生きられない”事を悟る。参号機に搭乗し使徒の侵食を受け、ダミープラグによる初号機による殲滅処理は、旧作劇場版における量産機による陵辱を髣髴させた。ここで彼女は過去に受けた傷を再び受けたと言える。その後、隔離・封印されたようだが、それは参号機侵食型であった使徒・バルディエルがアスカに何らかの“影響”を残したためだと思われる。『Q(急)』の予告動画で、アスカは左目に眼帯をしていた。それは旧作劇場版『Air/まごころを、君に』のエンディングで、左目に包帯を巻いていた事を連想させる。
彼女は旧作から克服し、どう成長するのだろうか。

鈴原トウジ

TVシリーズにおける“四人目の適格者”にして、参号機のパイロットであったが、今回は無関係に。
それを象徴するように、バスケットのゴールを外し、アイスキャンディー(ガリガリ君?)の棒のくじが『ハズレ』だった。
結果として彼は、足を喪失しなかったし、シンジとの友情が続く…と思う。旧作との相違点の象徴のような彼。
妹の姿が初披露となり、ちょっと微笑ましい。妹溺愛っぷりを披露。

真希波・マリ・イラストリアス

何だか、私には好みのタイプの娘だった。
物語が始まって早々、第3の使徒との戦闘では、『365日のマーチ』を歌いながら、駆け抜ける。
出たばかりの仮設伍号機を失ってでも使徒を殲滅。
目的達成のために孤独に戦う姿は、今までにいないタイプ。しかし、彼女の個性はまだはっきりとしない。
立ち位置が“誰かの代わり”の位置のためだ。しかし、只者ではないのは、理解できる。

挿入歌・効果音

『365日のマーチ』
『今日の日はさようなら』
『翼をください』
旧作までクラシック、特に聖歌の挿入歌が多かったのが、ここに来て日本人に馴染み深い曲を入れてきた。それは学生時代誰もが聞いた、歌ったことがある歌だ。
ダミーシステムによる参号機陵辱のシーンで流れた事は、シーンとのギャップがあり、非常にグロテスクだ。同時に、心象風景を代弁しているように思える。
終盤に天使の輪を表したような初号機。しかし、その背に翼は無い。その代わりに『翼をください』が流れる事で、翼があることを想像し、旧作のサード・インパクトのシーンを連想させた。

オープニングで使われた効果音。それは『ウルトラQ』のものだった。同時に、映画を観終わった後、これが次回作『Q(急)』に続く事を想像させる。

もうひとつは、“懐古趣味”
庵野監督、『ウルトラQ』がお好きだ。
そして、日本を代表する現代のアニメ作品が、様々なもののオマージュの連なりによって成り立っている事を示唆しているのではあるまいか。

ネブガドネザルの鍵

加持が持ってきたもの。それは旧作の第一使徒・アダムではなく、ネブガドネザルの鍵と呼ばれるものであった。
ネブガドネザル(ウィキペディア)
このネブガドネザル、映画『マトリックス』において主人公らが乗っていた船の名にもあてがわれていた。ネブガドネザル、この名称で指されるのは、ネブガドネザル2世だという。

ネブカドネザル2世は、バビロニア側から見れば、「失われた領土を奪回し、バビロンの大部分再建し、国内の神殿の大半を修復し、国勢の基盤を立て直した英雄」である。

マトリックス・リローデッド 象徴からの解読

上記のことから考えると、何か新しい国勢に向かう基礎となる、新たな世界への扉を開く鍵と言うことになる。
その考えはこの『破』という作品に流れている考えだ。
加持が社会化見学に皆を連れて行き、シンジに畑仕事デートに誘い、世界の片鱗と本質を示唆する。
それは、既存の社会制度に変化を齎す次世代への教授であり、シンジに“父性原理”に立ち向かうきっかけを与えているように見える。

私が新劇場版に思う事は、旧作における“母性からの脱却による自律”から“父性原理に立ち向かう”成長の物語だ。その可能性が高いと思う。

長々と書いてしまうので、この辺で留めよう。
次の機会に、ホカノキャラクター、特にゲンドウと、使徒についても考察しておきたい。

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