『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序→破』考察参 補完
今日は地上波放送で『ヱヴァンゲリオン新劇場版:序』をやっているので…
その感想…と思いましたが、既に先日、大体の事は書いていた。
寧ろ先日『考察参』と銘打った駄文があまりにも酷すぎる、中途半端だったので、その補完。というよりは修正。
“序破急”における“破”とはその前段階“序”にて行われた、人物が登場して調子をつくすものを破り、細やかにさまざまなことをつくすもの。
では一体、何を“破”るというのか。
それは、旧作劇場版ということか?
旧作劇場版は、中途半端に、主人公ともども観客は“傷”を負わせた状態で現実世界に放り出され、物語は完結した。
それは現実逃避にならぬようにという配慮?と意図がある。製作時間・予算の問題もあったと思うが。
現実の傷を癒す、浄化する事が出来るのは、結局、現実の世界でなければ成し得ない。
だから私たちは『劇場版』という仮想の、強引に言えば主人公・碇シンジのそれと同一化させてしまった心象風景から、現実世界に戻らなければならない。
レイ「そんなにイヤだったら、もう逃げだしても良いのよ」
勿論、内向し、一時的に“退行への緊急避難”する事は許される。其所で現実を生きる活力を得るためだ。
現実を生きるための言わば‘小休止’をするのである。
映画館で物語を通して、死と新生の疑似体験をした。アニメ、つまりフィクションである事が、どんなに悲惨な主題でもそれを客観的に見る余裕となる。
それが生きる活力を得るきっかけとなる。
シンジ『僕の、現実はどこ?』
レイ『それは、夢の終わりよ』
仮想の中で安息はあるが、それに甘んじると、脱け出せなくなる。
それが現実にあるもの、人間関係や社会秩序に絡みすぎ、現実と区別出来なくなってしまえば、なおのこと。
だから私達は、傷を癒すこと無く現実世界に立ち返り、日常生活を送る(送った)のだ。
それが、旧作劇場版の意図であると私は考える。
ここまで書いて思う事は、旧作劇場版においても、殆んどが主人公・碇シンジの心象風景のみで完結し、他者との繋がりが描かれきれていない事。
シンジは他者との、ひいては社会との繋がりを築けず、それに苦悩した。
そして、胎内回帰に象徴される現象の後、シンジの母性的なものからの脱却までを描いていた。
それは、その次に向かう、父性原理的な部分即ち他人や社会との繋がりを築く手前の状態なのだ。
そう考えると、新劇場版が語ることは、父性原理のようなものではなかろうか。
実際、碇シンジは父・碇ゲンドウとの関係を築くことが出来ずに終わった。
旧作劇場版で母と再会し、「…さよなら…母さん」と言ったように、父に「ありがとう」と言えるだろうか。
他人と、社会との繋がり。
その足掛かりを、破戒するきっかけを『破』は表現するのだろうか。
そんな事を、考えていた。