『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序→破』考察 参
公開も間近になって。
『考察』と銘打って厭きもせず書くヱ(エ)ヴァンゲリヲ(オ)ン話。
今更ながら“エ”では無く“ヱ”であった事に思い至る。
いい加減、今まで貰ってきたフリーペーパーについても書こうかと。
あの頃、理解できなかった事を、今、少しだけ解るような気がする。
それが理由。
4月から開始され、全部で3冊。
内容は『破』の予告的絵コンテ、カットと考察の寄稿。
デザイン、ヴィジュアル共に綺麗・格好良い。
先日配布されたもののみ、横型上綴じの形式をとり、映画の横型の画面を彷彿させる。
公開直前にあって、これは気持ちが逸る。
新劇場版は四部作になる予定。
タイトルに『序』『破』『急』『?』が付く。
フリーペーパーに寄稿されていた考察にも書かれていた事であるが、この“序破急”室町時代から雅楽などの日本芸能に脈々と受け継がれている言葉である。
参考:『序破急』
ヱ(エ)ヴァンゲリヲ(オ)ンはキリスト教的オカルティズムがモティーフに組み込まれているので、突如として伝統文化が織り込まれた様にも思える。しかしあくまでも日本製であるし、社会現象となり“サブカルチャー”と言われた分野の知名度を上げ、日本を代表するカルチャーとした?先駆けとなった事を考えると違和感が無くなる。
旧作劇場版が上映されたのが1997年…この頃から、サブカルチャーの分野であったアニメや漫画が、カルチャーとして見ようとする動きが始まったように思える。
『破』とはそれまで(序)の展開を覆す、観客の予想を越える、破壊するという事。
『序』公開時も‘ただのエヴァンゲリオンのリメイクには留まらない’と宣伝されていた。
実際、新しいキャラクターや装備の変更、更には物語の根底に流れるものが旧作のものとは異なる事が『序』の後半で仄めかされている。
だから『破』なのだ。
では、一体何が提示されるのだろう?
しかし旧作を知っていると『破』という言葉から“破壊”“破滅”を連想してしまう。不安や死に近くなった物語を思い出す。シンジの募る孤独感、アスカの自我崩壊、ネルフ本部への武力制圧…
旧作劇場版では、他者との関わりの中で人々は死に瀕し、個人という規格を失う。しかしその中で希望という生きる活力の源を提示した。
だが、それは“活力の源”に過ぎず、主人公・碇シンジは傷を負ったまま現実世界に放り出される。
これは観ていた側も同じ状態だった。
私達は旧作劇場版を見終わった後、茫然としながら映画館を後にした。
傷を負って現実世界にいたアスカの「気持ち悪い」の言葉に集約された思いと共に。
本当は10年前のあの時に、シンジが個として帰ってきたように、私達は本当の現実世界に帰っていた。
勿論、それで良い。
エヴァンゲリオンが“成長”する物語であるなら、完結はあり得ない。
心に傷を負う事が成長するための前段階であり、個人と成るための条件でもある。
旧作劇場版を観て受けた心の傷を浄化、癒す事は観客個々人に委ねられていた。
だから言うまでも無く、エヴァンゲリオンはそれで物語は完結していた。
しかし、“浄化”されきれていなかった。
前述したように観ていた側も物語を通して‘傷を負ったまま現実世界観に放り出され’た。
それは、主人公が新たな傷を負っているためではなかろうか。
希望――パンドラの壺の底にあったもの。
それが“生の活力の源”であることは古来よりそれは不変で普遍的なものだ。
10年を経て、“観客”である私が思う事はこれだ。実に普遍的な話だ。
目的や手段が変わっても、変わらない過程だ。
負った傷の傷口は塞がっても癒えることは無い。あったとしても稀だろう。
負った傷が浄化されるか否かは、現実を生きる人間次第だから。
癒される瞬間は、自身の問題だけではなく他者との関わりの中にあるのも事実だ。
旧作劇場版の碇シンジはそれが出来ずに物語は完結したようにも見えてしまう。
シンジとアスカは終劇の瞬間に対峙し、お互いを受け入れたようにも取れるのだが。
破戒するきっかけを、その足掛かりを『破』は表現するのだろうか。
またしても駄文。