映画『五日物語―3つの王国と3人の女―』感想――“愛”が存在しないおとぎ話
公式サイト:
http://itsuka-monogatari.jp/
残酷で美しい大人のためのおとぎ話。
下記、ネタバレあり
動く絵画
映像の美しさは言わずもがな……画家を志した監督の作品という宣伝からも伝わるように。
どのシーンも1枚の絵画のように安定している。 映画『ニーチェの馬』を思い出す。
一時停止して紙に印刷し額縁に納めたら、“完成品”になってしまいそうだ。
「見やすい」「革新的」「心理描写が巧みである」といった映画的なカメラアングルよりも、そうした構図や様式美に圧倒される。
ラファエル前派など19世紀末美術を思わせる雰囲気。
水のなかに棲む怪獣ひアーサー・ラッカムが描いたファーフナー(※1)を、森に横たわる若返った老婆は、19世紀のヌード絵画を、赤い髪と森林の深緑のコントラストが印象的でクリムトの絵画(※2)を彷彿とさせた。
3つの王国の城も、実際にイタリアにあるものだ。(※3)
カステル・デル・モンテは、ヤマザキマリ氏が『男性論』『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』にて取り上げている、フェデリーコ2世によって建築された。
カステル・デ・モンテの最大の特徴は、奇観ともいうべきそのかたちです。正八角形の建物の角に、さらに正八角形の小塔がつながるという、全体的にシンメトリーを生かした形状なのです。数学への造詣が深かったフェデリーコ2世は、黄金比に基づいてこの城を建造したそうです。
(中略)
フェデリーコ2世が13世紀に建てたカステル・デ・モンテは、中世の他のどんな城とも似ても似つかない幾何学的設計が特徴です。私には理知的な佇まいをしたこの城が、「中世的」というよりは、とても「現代的」な建築に思えるのです。
ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』 集英社新書 2015 (p.165)
おとぎ話の世界はCGで描かれた作りものでは無く、イタリアの緑深い森林などの自然と城――リアルな美の世界だった。
五日物語(ペンタメローネ)
原作である『五日物語(ペンタメローネ)』は「世界最初の“おとぎ話”」だという。
『アラビアン・ナイト』『カンタベリー物語』のように額縁小説(劇中劇、枠物語)の形をとって展開してゆく。
当時人気だった『デカメロン(十日物語)』にちなみ、このタイトルになったという。後にグリム兄弟にも影響を与えた。
映画の元となった物語は下記にあらすじを掲載。
国や登場人物の名前、あらすじが、映画と原作では異なる。また、ここでは各話を象徴する格言・名言も添える。
ロングトレリス国の不妊の女王 ―― 一日目[第九話]『魔法の牝鹿』
フォンツォとカンネローロは魔法によって生まれる。フォンツォの母親である王妃は、カンネローロをねたみ、その顔を傷つける。彼は家を出て王様になるが、大きな危機に直面する。フォンツォは、泉とギンバイカの木を見てカンネローロの災難を知り、救出に出かける。
(p.106)
学ぶに犠牲をはらうは不幸なり
――格言
(p.97)
ハイヒルズ国の夢見る王女 ―― 一日目[第五話]『ノミ』
ある無分別な王様がノミを一匹飼っていて、羊のように大きくそだてあげてからそいつの皮をはがさせて、何の皮か当てた者に娘をやろうと言った。すると鬼が臭いを嗅いでノミの皮だと立てて王女を獲得したが、ある老婆の七人の息子がそれぞれに超人的な力をふるって王女を救い出す。
(p.57)
狼の卵と歯なしの櫛
――この世にあるはずがないほどばかげたこと
(p.62)
ストロングクリフ国の二人の老婆 ―― 一日目[第十話]『生皮をはがれた老婆』
ロッカフォルテの王が声だけ聞いて、きれいな指だけ見てだまされて、顔を見もせずに惚れて老婆と共寝する。だが、ごまかしに気づくと老婆を窓から放りださせる。イチジクの木に引っかかった老婆を七人の妖精が美しい娘の姿に変えてやったので、王は妃にする。すると妹の老婆が姉の幸運をうらやんで、同じくらいきれいになろうとして皮をはいでもらって死んでしまう。
(p.98)
息子よ、ねたみ心は自滅のもとと知れ
――サッナザロ[ヴェルギリウスの『牧歌』より]
(p.106)
(上記、引用は全て ジャンバッティスタ・バジーレ『ペンタメローネ「五日物語」』大修館書店 杉山 洋子,三宅 忠明 翻訳 1995)
映画の独自性がみてとれる。
映画鑑賞前、『金色の牝鹿』と『ノミ』には鬼(オーガ)が出てくるため、この物語は繋がるのではないかと勝手に想像していたのだが、そんなことはなかった……
女の性とライフスタイル
映画では男性の富と地位、権力に執心に対を成すように、女性欲望と執心が描かれる。
女性の三世代と、3つの転機を彷彿させる物語――
少女、女性(母)、老婆は、その世代が持ちやすい悩み――結婚、出産、若々しさ――を抱えている。
日本版キャッチコピーにある「残酷なまでの女の“性(さが)”」は、昨今の女性の社会進出の推奨と現実のギャップを抱える現代の(日本の)女性たちの琴線に訴えかけるものとしての意図を感じる。
2016年の流行語大賞の候補のなかに、「保育園落ちた日本死ね!!!」(※6)が入っているのをかんがみると……
しかし、この映画は“女の性(さが)”の問題だろうか?
確かに主人公は女性たちであり、男性は脇役に過ぎないのだが……
愛が存在しないおとぎ話
3つの物語全てに共通するものは、性別とは違う、別のものにあると思う。
彼女たちは“愛”が失われている/ていくのだ。
女の場合
ロングトレリス国の女王は子宝を望むあまり、冒頭から愛を失う。
それに気付かず、王子・エリアスに愛情を注いでいる気になって、過干渉になっている。
召し使いの息子・ジョナに嫉妬する程に……
『アーサー王物語』のランスロットとグネヴィアの行をせがむハイヒルズ国の王女・ヴァイオレット。
それは「結婚」や「大人の世界」という形式への羨望ではなく、“愛に餓えている”ためだ。
もちろん、年頃の乙女なので、性愛に関心があるのも事実だが……
ストロングクリフ国に暮らす仲の良かった老姉妹は、若さと美貌と富によって愛情を引き裂かれる。
妹婆・インマの嫉妬なのか、「姉と同じ場所にいたい」という切望からか、姉・ドーラのような若さと美貌を渇望し、ドーラが適当に言った言葉を真に受けて彼女は生皮を剥ぎ、絶命する。
男の問題
これは女性たちだけでの問題ではない。
唯一、愛を持っていたであろう、ロングトレリス国の王。
身重の道化師をみて部屋に引きこもる妃に
“My Love!"
と呼び掛けている。しかし愛を持つ王は怪獣を仕留める際に死んでしまう……
女王は子宝に執心するあまり、王の亡骸を一瞥しただけで、子宝を授けるという怪獣の心臓を抱えて去ってゆく……
ロングトレリス王の亡骸は“愛”のそれだった。
ハイヒルズ国の父王は娘が愛情を込めて歌った歌に上の空で、巨大なノミの方に愛情を注ぐ。(何気に政務までおざなりになっている節がある)
挙げ句、思い付きでその皮をあてるゲームで娘の婿を決めるという、愚行を犯す。
更に「王が約束を違える」という不名誉を受け入れたくないばかりに、傷心のヴァイオレットに「神が与えた試練」と言って嫁がせてしまう。
ヴァイオレットが嫁ぐことになってしまった鬼(オーガ)。
そのふるまいは粗暴だ。
彼がヴァイオレットのことを愛していたのか、ただ所有物として認識していたかはわからない。
足元がおぼつかないヴァイオレットを肩に担ぎ上げる描写は、僅かに“情”があることを見てとれる。
ストロングクリフ国の色情魔の王は数多の女性を抱けどそこに愛はない。
原題は"tales of tales(「むかし昔……」)"しかしその締めくくりに、「二人は幸せに暮らしました」という常套句、誰かの愛が成就することはない。
そのため「『白馬に乗った王子様がいつか来る』とか『愛の成就で幸せになる』なんて、おとぎ話(ファンタジー)の中だけで、現実を見なさい!」などという現実世界の常套句も霞となって消えてしまいそうだ……
業――結末
日本版のキャッチコピーにある‘運命の裏切り’というよりも、“業(カルマ/行為)”の結果が残酷なものだった、というのが妥当だろう。
嫉妬のあまりジョナを殺そうとした女王は、(それが女王は知らない)エリアスによって殺される。
“母殺し”はおとぎ話で多くみられる。
大概が“継母”に置き換わっているが、それは本来は実母であろう。
抑圧された子供による空想の中での報復ともとられるが、本来は子供の“親離れ”の喩えだろう。
双子のようなエリアスとジョナは、互いの友情――魔法で宿った命なので、彼らは双子も同然。それこそ兄弟愛――を失うようにみえる。
しかしジョナは、別の村の女性と伴侶になっていた。
彼を気遣って、エリアスは静かに去ってゆく。
ヴァイオレットと鬼(オーガ)との生活。ヴァイオレットにとって今までの生活や理想の結婚から、かけ離れすぎていた。
彼女は多くの犠牲を払い、己の手で“夫”の首を携えて城に帰還する。
当初の愛らしさ、あどけなさは無くなり、返り血を浴び鋭い眼光を湛えた姿に、父王は泣き崩れて謝る。
ようやく聞けた謝罪の言葉に、ヴァイオレットもようやく涙する。
若返ったドーラは物語の最後に、魔法が解けたのか再び老いはじめる。
大道芸人のパフォーマンスの最中、ひとり抜け出す姿はまるで、冒頭の不妊に悩む女王の姿の反復にも思えた。
とはいえ、元と末が結び付き反復をくり返す、無限ループする構造ではなく、分岐し行き止まりがある迷路のような構造なのかも知れない。
大道芸人たち
物語全編に現れる大道芸人たちは、物語の貴族の娯楽であり、物語の布石となり、助っ人となる。
彼らの存在は、この物語が中世イタリアの再現という”現実的なものの象徴”であるだけでなく、この物語がファンタジーであることの映画を観劇する人に気づかせる“メタファー”として機能しているように思えた。
海の怪獣や巨大なノミ、魔法使いらよりもはるかに。
シェイクスピアの戯曲でも、しばしば重要な役割を担う道化師(大道芸人の一種)。それを意識させる。
劇中でも、貴族らを楽しませている非日常の空間を再現しつつ、演じている彼らは演技の進行を確認したり、技量を上げるための修練を欠かしていない。
現実的・日常的な姿勢の対比が、映画を観ている私たちを現実に縫いとどめさせているような気がした。
- Arthur Rackham’s illustrations to Wagner’s THE RING OF THE NIBELUNG (english)
http://artpassions.net/cgi-bin/rackham.pl?../galleries/rackham/ring/ring44.jpg (2016/12/10確認) - Goldfish, 1902 by Gustav Klimt (english)
http://www.gustav-klimt.com/Goldfish.jsp Gustav Klimt Paintings, Quotes, and Biography (2016/12/10確認) - 五日物語-3つの王国と3人の女-|海外旅行の予約なら「Tトラベル」
http://ttravel.jp/cinema/itsuka/ (2016/12/10確認)深緑の森、神秘の洞窟、古城……「五日物語」で登場する“イタリアの秘境”とは?
http://eiga.com/news/20161111/24/ (2016/12/10確認) - Comune di Ragusa: Castello Donnafugata (イタリア語)
http://www.comune.ragusa.gov.it/turismo/castello/index.html (2016/12/10確認) - "Castel del Monte" official website(イタリア語)
http://www.casteldelmonte.beniculturali.it/index.php?it/1/home (2016/12/10確認) - 「保育園落ちた日本死ね!!!」
http://anond.hatelabo.jp/20160215171759 (2016/12/10確認)『保育園落ちたの意味は何をさすのか。日本死ねではなく日本死ぬ、という問題』 Web for 40
http://webfor40.net/kids/hoikuenotita-imi (2016/12/10確認)