映画『カニバル』感想
公式サイト:
http://www.cannibal-movie.com/
サイコサスペンス、ホラー映画とは違う印象を受けた。
「仕立て屋の独身男の、平凡な日常」として「人肉嗜食」がある点だ。
朝は仕事に打ち込み、食事をし、寝る。そして礼拝をしに教会に通う。
但し、食事は欲しいと思った女性たちの肉である。
グロテスクな部分はそぎ落とされ、全てが静謐な美に支配されている。
人肉嗜食家であるカルロスの、犯罪へのスリリングな描写や隠ぺい工作の周到さは描かれない。
カルロスの獲物となってしまう女性達の一瞬の死が表現されるだけだ。
肉を解体するシーンも女性達の美しい肢体と流れる血に惹かれてしまう。
対比と連鎖
この映画の様々なディテールの対比が、鮮烈なイメージをもたらしている。物語が進むにつれ、それは連鎖してゆく。
その対比と連鎖は互いに断絶しない。
例えば、カルロスの人物像は象徴的な対比を内在させている。
男の身体を包む(皮膚、肌を隠す)「服」をつくる一方で女の身体を解体(皮膚、肌を切り裂き中を暴く)して「肉」をつくっている点など。
彼の職場は紳士服のデザイン画しかない。
それはカルロスにとって、生活をする女性が存在しないことを暗示している。
だから解剖学の絵が貼られたボードに、物語の布石となるマッサージ師・アレクサンドラの顔写真付きのチラシを貼る事は、女性が人肉嗜食の対象であることと、カルロスの中にある男と女の隔たりを意識させた。
魅かれたが故に殺して食してしまったマッサージ師のアレクサンドラに対を成すように、失踪したアレクサンドラを探しに来た双子の姉・ニーナが現れる。
殺して食べてしまった女の連鎖、寧ろ延長のような存在が、カルロスの前に立ちはだかる。
官能的な場面に連鎖は現れる。
カルロスがバジルソースを手で肉に擦り込む手つきと、親しくなったニーナがカルロスにオイルマッサージをする手つきは同じだ。
聖体拝領と人肉嗜食
夜、カルロスが一人で肉をワインを食するシーンの後に、これみよがしに翌朝の教会での聖体拝領の場面が差し込まれる。
それはカルロスの行為が同義であることを示唆させる。
前半の解体シーンは、骨を切る音と流れる血で描写される。粘質さを感じさせない滴る血にワインを連想せずにはいられない。
冷蔵庫の中には、カルロスが欲しいと思った女性の肉しか食していない。
夕食の風景は、レアステーキとワインのみである。
映画『羊たちの沈黙』『ハンニバル』シリーズにおけるハンニバル・レクター博士が究極の美食として調理にも美意識を持っている点とは大きく異なる。
何かの本で読んだが人肉嗜食の動機は、飢餓、宗教的理由、性的倒錯、究極の美食が主に挙げられるという。
カルロスの人肉嗜食は宗教的理由と性的倒錯だろう。
中野美代子『カニバリズム論』にも示唆されていた。
肉欲の至高の表現は、愛する者を滅ぼし、これを食いつくすことにありはしないだろうか。性が形而下の目的として生殖すなわち有を一方の極みにおくならば、一方の極みには、完全な無があるはずだ。
映画を見ている私は、それを疑似体験してしまう。
人肉の味覚へのふしぎな好奇心を、どこかにひそかに匿しているように思われる。それは、永遠に、未知であることが知れている。さて、渇望と想像力の交流が、ここから発生する。その原理は、今度は、エロスの原理と一つである。達成したい、しかし、達成すれば、終わりである。……
『カニバリズム論』で、文学では人肉のは羊に例えられることを指摘、そして鬼子母神はザクロは人の肉の味がすると言っていた。
本当にそうなのか?という未知の好奇心、想像が、未知の存在でもある他者・愛する人との同一化の願望と結びつく。人類が究極の禁忌であるにも関わらず。
禁忌である故、人肉嗜好に破滅の予感を想像する。
ニーナや世間にカルロスの殺人が露見する事への想像は言わずもがな、マッサージのシーンでは喰う・喰われるの関係が逆転するのを暗示しているのではと憶測した。
また、人肉嗜好が究極の美食ならば、『カニバリズム論』から言葉を借りれば‘頂上の感覚にひそむ衰微と滅亡への予兆を思わずにはいられない’ためだ。
さらに、カルロスが殺したアレクサンドラという名はギリシア・ローマ神話のトロイア王女・カッサンドラに関連し、不吉や破局を暗示させ、ニーナの名は勝利の女神・ニーケーに由来する。
しかし、カルロスの破滅は地位の喪失や法による断罪では無かった。
それは「変化しない」という事だったかもしれない。
初めて人を、女性を愛する事ができたにも関わらず、その愛を2人で共に歩む形で手に入れる事が出来なかった。
それによってもたらされたかもしれない救いが、もはや彼には無いのだ。