北川 健次展 Stresaの組鐘−偏角31度の見えない螺旋に沿って
春に行われていた、ダンテ『神曲』地獄編をテーマとした個展に伺えなかったので、本当に久しぶり。
日本橋髙島屋 6階 美術画廊Xにて。
http://www.takashimaya.co.jp/tokyo/event3/#os3687
~2014/11/10まで。
こちらでの展覧会は何度目だろうか。6回目?
好評を博していらっしゃるようだ。
広いスペースに沢山の作品が展示されているので、見応えがあった。
前回の個展の延長もあると思うが、ダンテ『神曲』のイメージや、フィレンツェ、即ち当時のイタリア・ルネサンスへ思いを馳せる作品が多く感じた。
金属と機械的なもの、設計図などの図面に、中世からの脱却、文化・諸芸術の復興を私は強く意識した。
先生の昔の作品に多く見られた、測量図を重ねたコラージュの新作に注視してしまう。
少作品で強く惹かれるのは、手のモティーフが入っているものだった。
物質感を伴う金属や宝石の写真に添えられた西洋絵画の油絵から取られた手たち。
構図の安定感からなのか、“手”から連想される“所有する”安心感だろうか。
写真作品は懐古趣味を刺激され、構図や色の美しさに私は眺めていてほっとする。
気になった作品は以下。
《EVaの本》
3冊の革表紙の本の背、その幅に合致する幅に、旧約聖書のエヴァの下半身・太腿と絵画の黒い背景が切り取られコラージュされている。
その奇妙な一致。
葉で隠されながらも局部から女性とわかるそれ。
タイトルも相まって、聖書物語、原罪の逸話を想起させられる。
3冊の本に、脈々と受け継がれたセム系一神教(ユダヤ、キリスト、イスラーム)を連想し、その原初の逸話となっていること等を思った。
人は罪の生き物かも知れないが、原罪が本当に“罪”だったのか、今を生きる私は懐疑的だ。
書物は記録を、ひいては歴史を象徴する。歴史と神話は延長にあるという感覚もある。
「いつも勝者が敗者の歴史を書き、生き残った者が死者たちの歴史を書くのである」レッシングの言葉だったが、綴られた人間の悲しみが歴史であると悲観的にもなってしまう。
そういえば、今年の3月に先生の新刊『美の侵犯 ―蕪村×西洋美術』が出版されていた。
日本の俳人と西洋美術のコラボレーションが、コラージュのように奇妙な一致を見せ、美術史と作品へのイマジネーションが新たな物語を奏でている。
凄く面白い本だと思う。
以前、コラージュの教室にて、ハンス・ベルメール《ウニカ》と蕪村の俳句の話を拝読したが、以来、私の頭のなかでこの2つは癒着してしまっている。
北川健次先生オフィシャルサイト
http://kenjikitagawa.jp/