スカイ・クロラ考 ――父性原理
押井守氏の映画『スカイ・クロラ』を観て、大分経ちました。
この映画には、随所に“エディプス・コンプレックス”なるものが表れます。
あまりに象徴的に、判り易く描かれていたので…別に考えなくても良いのかも知れませんが、
それについて、考察。
多少のネタバレを含みます。
私は心理学について詳しくはありません。
“エディプス・コンプレックス”については、ネット上でも多く解説が掲載されているので、ここでは割愛します。
『スカイ・クロラ』に表れる、父性について、考えてみたいと思います。
ロストック社に対する企業ラウテルン社のパイロット“ティーチャー”
冒頭から“ティーチャー”に挑んだキルドレ達はその圧倒的な力の差を見せ付け、死を与えます。
それでも“ティーチャー”に挑むキルドレ。
この映画で、“父”は直接描写される事は無く、間接的に、象徴的に表わされます。
黒豹が描かれた機体“スカイリィ”や、クサナギ・スイトに纏わる噂であったり。そして終盤のユーイチの台詞がそれを決定的にしています。
人物だけではなく、その父――“父性”は舞台背景も象徴していると思われます。
舞台の中心である空――天は多くの神話において、男性神が象徴します。
また、これは直接関係が無いかも知れませんが、アイルランド――ケルト神話において、父性の大地神がいます。舞台となる土地がアイルランドであることも、父性の象徴かもしれません。
また、“ショーとしての戦争”の必要性についてユーイチとスイトがバーで会話する際、スイトの背景にある不思議な絵は大人の男性ばかりでした。
それは人類の歴史の中で、戦争が男性的な、父性原理から派生してしまったものであることを示唆しているように思えました。
父性とは、
「批判する」原理をいい,きびしさ・規律・鍛練などを意味しています。そこで、父性は子供の現状に満足せず、より望ましい目標を示して努力を促すことといえるでしょう。
インターネット上「倫理道徳レポート(仮称)」より引用。
挑む対象であり、倒すべき象徴として、抽象的に描かれる“父性”
彼を倒したら、はたして何かが変わるのだろうか?
普遍的な話ではありますが、それは“子供(キルドレ)”が大人が造った社会を変えようとする未来への希望であり、社会を変えようとする力が衰えつつある現代の若者世代への問題定義ではないかとも思えます。