『Golondrina-ゴロンドリーナ-』考察 ――スペイン闘牛を日本人の私が見て

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えすとえむ著『Golondrina-ゴロンドリーナ-』(以下、『ゴロンドリーナ』)が今お気に入りのコミックなのだが、一部のコミックレビューが「闘牛は残酷」の一辺倒だったので、気になって考えていることをまとめる。

近年、動物愛護の観点からスペインでは闘牛の廃止が広がっている。
だが、残酷さだけでははいと私は思っている。

屠殺の話とも関連するが、私達は普段食しているものが生き物を殺して食べているということを意識させられないだろうか。
闘牛ではショーという形を取るが故に屠殺の残酷さが緩和されていたのではないだろうか。

屠殺はもちろんショッキングなものである。
普段、陽の目に晒すものではない。だが、それを認識する事もまた必要ではないか。
精製された肉に死の匂いはしない。勿論それが残酷さの緩和の表れであるが、だからこそ真摯に受け止めるきっかけとして闘牛に思いを馳せる。


儀礼――日本人の私が見て

日本人である私は闘牛に礼儀作法を垣間見ようとする。
牛を躱すとき、銛を刺すとき、その洗練された動きに。
だがスペインの闘牛に日本の「道」のようなプロセスに重きを置いた礼儀作法など、無いように思えた。
それを思い知らされるのが、仕留めた牛が絶命する前にさっさと踵を返す闘牛士の姿だ。
それは次の準備があるから退場するのだが、闘牛士も観客も死んでゆくただ一頭の牛に思いを馳せる者はいないように思える。
やはり、娯楽の粋ではあるのだ。

3巻発売記念で特設サイトが設けられていた。

えすとえむ『golondrina』特設サイト
http://www.ikki-para.com/golondrina/index.html

写真で闘牛の大まかな流れを紹介している。
古代の供犠、ギリシア神話のミノタウルスの系譜でありながら儀式的な要素は見受けられない。

闘牛のルーツには屠殺に関わる民族の祭りの影響があるという指摘もある。
儀礼的な作法が色濃く残っていれば現代の闘牛には批判ではなく祈りをもって敬意を払われただろうか?ミサのように。

血の流れ――スペインの文化の根底

日本のような礼法なものが無いが、それでも私は闘牛にある魅力を否定する事は出来ない。

それはスペインの歴史に脈々と存在するものを汲んでいるためだろう。
オペラ『カルメン』に代表されるような文学・芸術への影響もある。
ヘミングウェイも闘牛に関する文章を遺している。
ピカソもまた闘牛に魅せられた画家の一人だった。作風や主題が劇的に変化するように思えるピカソでも、実は一貫したテーマとして闘牛が関わってくるようだ。
主題としての『闘牛』だけではなく、闘牛のルーツのような『ミノタウルス』も描いていた。
参考文献:須藤哲生『ピカソと闘牛
ピカソと闘牛

それは何故か。闘牛が人を惹きつける魅力とは何か?
そこにあるのは、生きるという事の暗い面だと私は思う。

かつて地上の楽園と謳われたスペイン。しかし長きに渡る戦争や宗教の衝突により、赤い大地は荒廃した。
死んだ者、敗北した者、虐げられた者の苦悩の歴史がある。
参考文献:有本 紀明『スペイン 聖と俗
スペイン・聖と俗 (NHKブックス 430)

今日明日を生きる糧として屠られる牛達に、それらの想いを血の興奮と共に感じているのではないだろうか?
決して牛を嬲り殺すことに悦に入っている訳ではない。

命を懸けて生きるもの

ゴロンドリーナ』2巻での「牛の命を奪い続けて、お前に生きる価値が?」と問われる言葉は重い。それは生きるという事の苦悩だ。

闘牛では完全に人間が有利という事は無いようだ。闘牛士も死ぬ事がある。
ゴロンドリーナ』1巻の冒頭は闘牛士の追悼番組だったし、ヘミングウェイやピカソは死んだ闘牛士への哀悼の文章も遺している。

闘牛が生と死を雄弁に物語る場でもあろう。それは生きる事を喚起させる。
主人公のチカが闘牛士になる動機が死への衝動から来ている事にも、私はそれを強く意識させられた。

日本語で書かれたフラメンコと闘牛についての良著・勝田保世『砂上のいのち フラメンコと闘牛』に興味深い行がある。

“闘牛士は古代ローマのグラディアトーレ(コロセウムやシルコで殺し合いをした決闘士)の現代版だと思う。その身辺に時折異様な雰囲気がただよっていて、それはむかしの剣豪のようにいのちを賭けて生きる男の真剣な気迫というか、なにやら殺気を帯びた凄みのようなものである。(中略)
たまたま友人が紹介してくれた。セビリャでいろいろとうわさの中心の歴史的大闘牛士なので、こちらはなんとなくあがって小さくなっていると、やおら色黒の凄味ある顔がふりむいてわたしをながめ「フム、ハポネエ(日本)の若ぞうか」ってなものだった。(p.24~p.25)”

参考文献:勝田 保世『砂上のいのち―フラメンコと闘牛
砂上のいのち―フラメンコと闘牛 (1978年)

死に直面する事の無い社会では、己の生きる意味を問うような生き方をする人間の力に、魅かれてしまうのではないだろうか。


少し調べると、日本でも闘牛批判に対し疑問を呈する方もやはりいらっしゃるようだ。
「生き物」への虐待か? --- スペインの闘牛のこと
http://d.hatena.ne.jp/El_Payo_J/20100805/1280985975

幾つが日本語で上げてあった闘牛の動画をYouTubeで拝見したが、いただけない。
何故なら撮影者の「牛が可哀想」という声が日本語で入っていて、闘牛の精神を垣間見る事が出来ない。
言葉の意味が理解できるのでそのイメージばかり先行してまう。そのため公平さに欠けると思った。

私は動物愛護の観点だけで、闘牛を否定する事は出来ないと思っている。
人間の暗い歴史や感情、込められた思いや祈りを知ったうえで自分の内側で考えて、肯定も否定もすべきだと思う。


今年の12月に女闘牛士の映画がある。
それはドキュメンタリーではなくファンタジー映画らしい。

ブランカニーヴス(原題"BLANCANIEVES“)』
公式サイト:http://blancanieves-espacesarou.com/

白雪姫をモティーフにした映画で、モノクロが美しい映画だ。
ゴロンドリーナ』にも似ているような印象があるので、観たい。

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