仙厓礼讃
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またしても、終わってしまった展覧会。
最近、会期内にブログを書けないことが残念なのだけど……
丸の内・出光美術館( http://idemitsu-museum.or.jp/ )にて。
禅画を鑑賞するのは、2013年の白隠展以来だった。
禅とはとっつきにくいものではないと、庶民にもわかりやすく伝わるように普及に努めた、仙厓の画業を垣間見る展覧会。
充実したセカンドライフ?
展覧会の冒頭から、広告にも使われている《老人六歌仙画賛》など、老いを面白おかしく表現し、ありのままの自分であることを肯定するような印象の作品だった。
老いることの恐怖がありながら、それを笑いとするユーモアがあることに驚く。
現代人は老いを悲観しているのに、この江戸時代の高僧は歌の中で驕りを戒め、逆説的に肯定していた。
こんな発想の源泉はどこにあるのだろうか?
仙厓は隠居後に諸国を旅していた様子。旅をしながら創作へのインスピレーションをまとめ、それを後に清書している。
その備忘録(アイデア帳)と清書した掛け軸などが展示されており、仙厓の作画手順を想像する。
仙厓の作品群を観て私は、そうしたユーモアの源泉が、ご隠居坊主の充実したセカンドライフ故だと思っていた。
現役を引退してから諸国行脚して絵を描く……現代を生きる私にも羨ましいレベルの老後だと思っていたが、引退した僧侶の余生を楽しむ趣味としてだけではなく、禅の思想を極めるため、その普及のためのものだった。
《一円相画賛》の哲学的な真理を極めたような図像は大福に見立てられ、「食ってしまえ」と言ってのけられ、《座禅蛙画賛》は若い坊主に傲りを諌めるため蛙に見立てられていた。
禅を志す者には禅の教えを、そうでなければ一時の心の和みを、見るものに与える。
私が特に興味を持ったのは、《一円相画賛》や《〇△□》にみられる、美しい正円。
美しい正円を一筆書きできる技術と集中力もさることながら、サブカルチャーに現れた元ネタ、そこに込められた意味に思いを巡らせてしまった。
映画『メッセージ』(※1)で宇宙船内の知的生命体が使うコミュニケーションツールの筆書きされた円形のような〈文字〉。
ホラー漫画家として有名な楳図かずおによるSF作品『私は真悟』で、それまで“四角”だったコンピューターの真悟が通信衛星とアクセスし、“三角”(知識、関係性、自我の獲得)へと進化してついに“マル”(地球そのもの)になった、という件がある。 その元ネタとの遭遇でもあった。
〇△□
古くから様々な解釈が試みられてきた。真言と天台と禅、神道、儒教、仏教であるとか、ストゥーパ(卒塔婆)に見る仏教的宇宙観の水と火と土である(※2)とか……
衛藤吉則氏が指摘されているように、〇から描いたと見えるが、図形が重なった部分の墨のにじみ方からすると、薄墨の□から描き始めて少し濃い墨で〇を描いたことがわかる。そして最後に、〇と同じ濃さの墨で一番左に空けておいたスペースに落款を入れたのである。衛藤氏は、だから「〇△□」ではなくて「□△〇」であるとされる。ただ、自然な見え方は「〇△□」である。少なくとも仙厓は、そう見えることを想定していた。
中山喜一郎「厓画最大のナゾ さまざまな解釈を生みだす作品」
中山喜一郎監修『仙厓(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)』p.108
手紙に□から△、〇への到達の道筋が、仙厓にとっての目標だった。ならば何故そう描かなかったのか?〇△□は自然の流れで、自分は逆に進むことで真理に至る道であるというような意図ではないかと中山氏は解釈していた。
仙厓を西洋社会に紹介した鈴木大拙は「〇△□」をユニバースと解釈している(※3)
狩野派のテイストを再現できるほどの画力がありながら、「それでは禅の本質が伝わらない!」とゆる〜い禅画を描いた仙厓。
見ている人が絵の内容に関心を持たないことを懸念した考えに、仙厓が禅僧であることを強く意識させた。
会場片隅のパネルで紹介された、参考資料の想像の豹は迫力がある。
それは小さな画像にもかかわらず、細密な描写が見て取れる。
なぜ画才に重きを置かなかったのか……
欧州の画家たちとは違う発想に、私は驚かされた。
ヘタウマ絵
仙厓もそんな謙遜な姿勢から禅画を描いていた訳ではなさそうだ。
《龍虎画賛》は、龍虎図からイメージされる迫力からは程遠い……その上ご丁寧に、龍図には 是何曰龍 人大笑吾亦大咲(これは何かと問われ龍だと答えたら、大笑いされ自分も一緒に大笑いした)
、虎図には 猫乎虎乎 将和唐内乎
(猫か虎か まさに和唐内(※4)か)という賛まで添えられている。
酒の肴?か、商人が幽霊画を床の間にかけて招いた客人を驚かせて楽しんだように、自身の絵を笑いのネタにしていた。
収集品
『神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展』でのルドルフ2世の蒐集癖に驚かされたが、仙厓もまたちょっとした偏愛、収集癖があった模様。
もっとも、ルドルフ2世とは違い、珍しいものは何でも集めるという支配的なものではなく、会場に展示されていたものは、愛着を持った道具といった風だったが。
独自の美意識で集めたものは、茶碗や不思議な形をした自然の石をそのまま硯として使ったというものまで。
「やほよろづ」への愛情は、仙厓がさまざまなモノを愛したことにも繋がっているははずである。
変わった形の石や貝、あるいは硯(すずり)や落款(らっかん)、矢立(やたて)、茶碗、茶碗箱なども、仙厓は長くいとおしむように使い、触り、また眺めていたものと思える。「豊侈(ほうし)を尊ばず」と自ら書くように、それらはけっして高価なのではなく、むしろ珍奇なのだ。こうした趣味と、権威を求める傾向は、私の経験ではけっして両立しない。『仙厓 無法の禅』p.117
その極みは展覧会会場の最後に掛けられていた。《涅槃図》はその名の通り、仏陀の涅槃図に擬(なぞら)えた自身の今際。
身近な人々と大好きな物品に囲まれ、悲しみよりも、ここでもまたユーモアが溢れる。
年齢だけでなく、人生そのものが大往生だったんだな……と思うと、微笑ましい。
- 映画『メッセージ』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ
http://www.message-movie.jp/(2018/12/2確認) - 仏塔・五重塔・塔婆
http://tobifudo.jp/newmon/tatemono/sutupa.html(2018/12/2確認) - 中山喜一郎監修『仙厓(せんがい):ユーモアあふれる禅のこころ (別冊太陽 日本のこころ)』p.109
- 近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」の主役・和藤内のこと。
和藤内が、日本人でも中国人でもないとうそぶくことになぞらえている。また和唐内が「わからない」とも読めるという洒落も入っている。