日本の妖美 橘小夢展 ~幻の作品を初公開~
またも終わってしまった展覧会……の感想。
文京区・弥生美術館にて。
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/
ようやく、本物を拝見できた。
初めて小夢と彼の作品を知ったのは、『夜想』だった。
世紀末美術、ファム・ファタールに影響を受けたであろう作品。
そして西洋の受け売りではない日本的なるものを模索していたのではないだろうか?
主題の選び方にそんな事を想像した。
今回の展覧会に合わせて、新しい画集なども発売されていた。
全ての作品が魅力的だが、特に有名なものに対する感想や覚書。
《地獄太夫》
写真でこの絵を初めて拝見した時の衝撃は忘れられない。
妖艶な見返り美人の裲襠はおどろおどろしい地獄絵図。足元の髑髏に破滅的な匂いがする。
ファム・ファタールにおける典型、概念的な美醜の対比。
私は同一視していたが、室町時代の地獄太夫とは異なる人だったようだ。幻太夫の事だという。
似た雰囲気のため、重ねあわせてしまうのだが……
参考:地獄太夫(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/地獄太夫
“根津の遊郭・大松葉楼という店には、幻太夫という遊女がいて、野ざらしの髑髏や阿弥陀仏(あみだぶつ)等抹香(まっこう)くさい裲襠(うちかけ)をまとっていることで有名だった。橘小夢の描いた屏風絵では地獄絵をまとっている。(※1)”
晩年の作らしいが、他の作品よりも際立った完成度や妖艶さに息を呑む。
橘小夢の人生の集大成なのかも知れない。
《水魔/河童》
エドワード・バーン=ジョーンズ《深海》を思い出さずにはいられない。寧ろ影響を受けたのではないだろうか。
その精神性は異なる。
《深海》のファム・ファタールが男を引きずり込み死に至らしめる女であるのに対し、女自身が破滅する。
ただ、どちらも溺死という恐ろしい場面にも関わらず、瞑想に沈む様な描写は静謐だ。
‘発表後、内務省からの発禁処分を受け、数百枚制作された「水魔」は全て没収されることとなった。そのほとんどが焼き捨てられたのであるが、何枚かを取り置くことが内緒で許されたという(※2)’エピソードには、芸術かポルノかという、いつも付きまとう論争を思い出さずにはいられない。
それが理由で消失したミケランジェロ《レダと白鳥》の事と重ねあわせてしまう。
《玉藻前》
これが日本的なるファム・ファタールか。
‘西洋では見ないが日本で多い獣に「狐」がいる(※3)’という。日本独特の、妲己の系譜であるならアジア圏特有の女と獣の関係。狐が化かすとは、ここから来たのだろうか?
橘小夢は同主題を複数描いている。
顔を覗かせる怪しい微笑の玉藻前の御簾に映る影は狐という不気味なものから、誰も見ていないのを良い事に本来の狐の姿に戻ってリラックスしている姿という微笑ましいものまで。
日本の「魔性の女」にも、人を殺してしまった女は幾人もいるが残虐なイメージはない。
「安珍と清姫」の場合、安珍を「可愛さあまって憎さ百倍」的に、「つい」焼き殺してしまったのであって、血に快楽を覚えているようなサロメや妲己とは違う。現存する複数の絵巻に見る安珍焼殺のシーンもごくあっさりしたもので残忍さは感じない。血に対する感覚の国民性の違いが、そこにあるのだろう。
関東大震災による作品の消失や、日本の軍国主義への傾倒等から無意味なものとして忘れられてしまった橘小夢の作品。
故に『幻の画家』とも呼ばれる。
文献も少なく、参考文献もその殆どを中村圭子氏が書いているようなので、出典が偏ってしまうのだが……
《水魔》に寄せた行の中に‘人間には死を恐れる気持ちとともに死に惹かれる心も存在するといわれるが、この絵を目にした者は、そのような、人間の意識下にある不可解さに思いいたるのかもしれない。(※4)’という言葉は、橘小夢の作品全てに――ファム・ファタールの魅力の本質そのものであることに、思いを馳せる。
- 中村圭子『魔性の女挿絵集 大正〜昭和初期の文学に登場した妖艶な悪女たち』p.13
- 『橘小夢版画展 | 特集一覧』
https://www.syukado.jp/feature/2014/09/tachibana-sayume.html - 中村圭子『魔性の女挿絵集 大正〜昭和初期の文学に登場した妖艶な悪女たち』 p.124
- 同上『魔性の女挿絵集 大正〜昭和初期の文学に登場した妖艶な悪女たち』 p.6