おとなもこどもも考える ここはだれの場所? / 木戸龍介 Behind the Scene ― その先の揺らぐ風景、揺らぐ価値
木場でモダンアート巡り。
2箇所だけだったけど……
おとなもこどもも考える ここはだれの場所?
公式サイト:
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/whoseplaceisithis.html
東京都現代美術館にて。
http://www.mot-art-museum.jp/
~2015/10/12まで。
先月のニュースで会田誠氏の作品が話題になったことと、いかな問題提起が成されているのか確認したく、足を運ぶ。
この展覧会では4つの問題提起が成されている。
大人は入れないエリア「「―美術館はだれのもの?」を除いて、諸々の感想。
―地球はだれのもの?
ヨーガン レール氏作品。
プラスチックが綺麗に色分けされ、分別されている……
ただ並べられているだけでも圧巻だった。
プラスチックはこんなにも自然に還らない物質であることを痛感する。
それらはお洒落な調度品になっていた。
経年劣化で出来たムラはマーブリングのよう。
センス良い色や形の組み合わせに、廃品であることを忘れさせる。
デザインの重要性を痛感した。
会場では鏡張りの暗い空間に吊り下げられていたランプシェードや間接照明器具達。
幻想的な空間だった。
しかし出版されている本には、もっとライフスタイルに拠ったシュチュエーションの写真が掲載されており、ナチュラルな印象を与える。
昨年お亡くなりになられていたとは知らなんだ……残念でならない。
ヨーガン レール氏サイト
http://www.jurgenlehl.jp/
※余談
一緒にいた友人から
「このランプシェード、エヴァンゲリオンの使徒に似ている!」
と言われた。
……色味的な意味で新劇場版の最強の使徒か、形的な意味でTV版使徒レリエルの事か。
―社会はだれのもの?
会田家作品。
例の、物議を醸した作品。
撤去要請があった後、それは撤回され今も展示されている。
内容を読んでも政権批判であるとか、何ら問題があるようには思えないのだが……
むしろここ数十年、問題視されていた意見をまとめただけで……
ストレートな提言ということか。それがアートではないという認識になるのだろう。
マルセル・デュシャンが便器にサインをし《泉》という“作品”にした事を思い出さずにはいられない。
そうすることでデュシャンは「何故アートは美しくなければならないのか」「アートの価値は何か」「アートの語源が“(自然の)模倣”である以上、芸術の“オリジナル”とは何を指すのか」等、様々な問題提起をした。そして見るものにそれらを考える機会を与えている。
参考:『マルセル・デュシャンの便器が変えたもの』
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/04/08/113225
上記ブログにある‘現代美術は「考え方」のアート’という言葉は的確だ。
そしてこの展覧会はそうしたものを表現するものではないのか?
それを踏まえると、現代美術館側が作家に撤去を要請したという点に疑問を感じる。
社会に対する提言は布に書かれた文章だけでなく、映像作品として提示される。
食べ物を使った料理番組風の作品は、1990~2000年代の教育等におけるはき違えた「平等」を風刺する。
個性を象徴する食べ物はぐちゃぐちゃに捏ねられ、最後に平等=均衡という表面的な解釈からミキサーにかけらる。
形状を失い、茶色いペースト状のものはもはや食べ物には見えなくなった。
視覚にもグロテスクだった。そして想像する味覚に胃の腑がひっくり返りそうになる。
想像ではある味覚がもたらす嫌悪感と、クッキーの制作と掛けて、個性を伸ばすことより、同じ型にはめる事(矯正/強制)で教育が成されたと考えているものへの揶揄。
同じ型で生産するようなそれは、効率化を求めた社会の産物だろう。教育と企業の生産性を“一緒くた”にした。
今の人達はその弊害を意識しているのだろうか?
りんごを使った、母子関係を揶揄した映像作品は当ブログで度々紹介している『毒になる母親』で取り上げられているもの「そのもの」だった。
受験勉強で悩む少女を母親は協力・応援するようで、そこにあるのは誘導する支配。
母親の「自分は、娘を良い学校に通わせるために励まし力になっている良い母親である」という自己満足しかない。
娘は上手く言葉に出来ないが、母親に気持ちを理解されたり受け止められず、抑圧されて悶々とする。
『毒になる母親』の問題には父親不在も影響するのだろう。家庭の中の父親の存在感の不在だ。
それは男性が仕事一辺倒である事が善しとされた社会風潮が続き、家族なり他人なり、仕事以外のコミュニケーションを蔑ろにした結果だと思う。
結果、男も女も、父親も母親も、家族のコミュニケーションを知らない人が多くなった気がする。
―私の場所はだれのもの?
アルフレド&イザベル・アキリザン作品。
部屋の天井まで届きそうな、建物乱立の世界。
映画『ブレードランナー』然り、弐瓶氏の世界を思い出す。
こちらの方がぬくもりがあるのだが。ダンボールという素材のためだろうか?
これは子ども達とアーティストの共同作品らしい。よく見ると学年・クラスと出席番号が書いてある(笑)
これを子供達はどんな事を考えながら作ったのだろうか?
「自分の家」という空間の確保、「こんな家に住みたい」という願いや、「自分」そのものの表現として家を作る――
悩んだ子供もいるかもしれない。一軒一軒に想像力を掻き立てられた。
木戸龍介 Behind the Scene – その先の揺らぐ風景、揺らぐ価値
その足でcoexist-tokyoへ。
会場に入ると独特の匂いがした。
それは何か最初解らなかったが、展示されている街並みを作っているブロックがインドのお香だという。
建物が幾つか灰になっていたのは、火を付けたあとだったのだ。
私はてっきり、燃えたブロックを作ったのかと思っていた……
燃やすことで、目に見えずとも人の心にも作用する香りを立たせるお香。
街並みから火災や空襲、震災など破壊的な印象を与えるものが、お香では価値を見出す行為と繋がる。
相反した価値観を内包するインスタレーションだった。
これはLIXILギャラリーで行われていたものと同じだそうだ。
作品の解説が詳しく載っている。
http://www1.lixil.co.jp/gallery/contemporary/detail/d_002625.html
木戸龍介氏サイト
http://www.ryusukekido.com/